伊福郷(読み)いふくごう

日本歴史地名大系 「伊福郷」の解説

伊福郷
いふくごう

和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。「和名抄」のなかで伊福郷は尾張のを含めて全国に六郷が知られ、遠江・備前のそれには「以布久」もしくは「伊布久」の訓が付される。

大日本地名辞書」は「伊福は尾張氏同祖の古姓にて、当国の名家たり」として伊福部氏との関連を述べ、「日本地理志料」は伊福部氏の居所とする。当郷が、大化前代の部民の一つである伊福部にちなむものとするならば、「いほき」と称していたものとも考えられる。

伊福郷
いふくごう

「和名抄」所載の郷。伊福いほき部の居住による郷名と考えられ、伊福は古くは五百城・五百木・廬城とも記されたが、簡潔な二字表記「伊福」が多用され、やがて読み方もその音読のイフクに固定した。郷の所在については不詳であるが、一般に伊吹山との関連を重視し、東麓の現揖斐いび春日かすが村一帯を比定地とする場合が多い(「春日村史」「大日本地名辞書」など)。また「揖斐郡志」は池田郡東端部の現揖斐郡池田町六之井ろくのい下東野しもひがしの上田うえだ付近を候補としている。伊福郷を考える手掛りの伊福部であるが、大宝二年(七〇二)の御野国戸籍(正倉院文書)に、伊福部(君)姓が「山方郡三井田里」をはじめ「本簀郡栗栖太里」「加毛郡半布里」などの戸籍にみえる。

伊福郷
いふくごう

古代御野郡伊福郷(和名抄)の郷名を継ぐものか。近世の上伊福村・下伊福村を遺称地とし、郷域は一帯に推定される。奈良東大寺野田のだ庄の成立を認める建久九年(一一九八)一二月日の後鳥羽院庁下文(東大寺続要録)に記す四至の北限に「公領伊福郷」とみえる。建仁三年(一二〇三)の備前国麦惣散用帳(東大史料編纂所蔵)によれば、麦一八石余を東大寺に進納すべきところ、納入されたのは一五石弱で、四石弱が未進、観阿弥陀仏が収納責任者であった。郷内に高山里があり、公文給二反があった(正応二年三月一一日「金山寺免田和与状」金山寺文書など)。正平六年(一三五一)一一月四日、当国目代は郷内の金山寺灯油免田に対する地頭違乱を止めている(「備前国目代下知状」金山寺文書)

伊福郷
いふくごう

「和名抄」高山寺本に「以布久」、東急本・刊本に「伊布久」の訓がある。郷域については現岡山市のささ川以東で万成まんなり山の南部および東部にあたる、近世の伊島いしま・伊福・別所べつしよ三門みかど石井いしい国守くにもり各村の地域と推定されている。推定郷域内には弥生中期から古墳時代前期にかけての複合遺跡である上伊福九坪かみいふくくのつぼ遺跡がある。

伊福郷
いおきごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「伊福」と記すが訓を欠く。「続日本後紀」天長一〇年(八三三)一〇月九日条に「佐伯郡人伊福部五百足」がみえ、「日本書紀」安閑天皇元年閏一二月条にみえる「安芸国の過戸の廬城部屯倉あまるべのいほきべのみやけ」にも連なる可能性がある。

芸藩通志」は「伊福も仁安中寄附状に、佐東郡伊福郷堀立と見ゆ」とするが、「日本地理志料」は佐伯郡三宅みやけ(現五日市町)にあてる。

伊福郷
いふくごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。高山寺本・東急本に「以布久」の訓がみえる。「遠江国風土記伝」は「気賀の駅背に福地里あり」として気賀けが(現細江町)大谷おおや(現三ヶ日町)の二村をあげ、これを受けた「大日本地名辞書」も気賀町に比定し、新旧の「静岡県史」もこの説を採る。

伊福郷
いふきごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。「大和志」は「已廃存井足福西二村」として現宇陀郡榛原はいばら町大字上井足かみいだに・下井足・福西ふくにし付近に比定する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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