池田郡(読み)いけだぐん

日本歴史地名大系 「池田郡」の解説

池田郡
いけだぐん

和名抄」東急本国郡部の訓注に「伊介太」とある。近世の郡域は揖斐いび川上流部の川西地方で、東は大野郡、南は安八あんぱち郡・不破郡と接し、西は近江国、北は越前国との国境をなした。享禄三年(一五三〇)の洪水で揖斐川はほぼ現流路となったが、それ以前は脛長はぎなが(現揖斐郡揖斐川町)白鳥しろとり(現同郡池田町)の間を南西へ流れ、赤坂あかさか山の東の現在の杭瀬くいせ川筋を南流し、安八郡との郡境をなした。現在の揖斐郡春日かすが村・坂内さかうち村全域と、同郡池田町・揖斐川いびがわ町・久瀬くぜ村・藤橋ふじはし村の一部にあたる。明治三〇年(一八九七)大野郡と合併して揖斐郡が成立し、郡名は消滅した。

〔古代〕

郡名の初見は「続日本後紀」嘉祥二年(八四九)七月二二日条の「美濃国池田郡養基神」を官社に列するとの記事である。同社は郡内唯一の式内社で現池田町の同名社にあたるとされる。美濃国神名帳には一一座がみえる。「和名抄」には六郷を記すが、諸本ともすべて訓を欠く。各郷ともほぼ現池田町・揖斐川町の平坦部に比定され、郡衙は郡名と同じ池田郷にあったと推測される。当郡は安八郡から分立した郡と考えられている。大宝二年(七〇二)の御野国味蜂間郡春部里戸籍(正倉院文書)は、当郡春日かすがべ(和名抄)の前身とされる。条里遺構も安八郡のものと方向・位置とも一致する。分立の時期については、承和一四年(八四七)大井おおい庄の坪付(延久三年六月三〇日「太政官牒案」内閣文庫蔵)が安八郡独自のものであることから、承和年間がその下限とされる。さらに条里制地割の完成期が和銅(七〇八―七一五)頃に求められることから、和銅から養老年間(七一七―七二四)の分立と推定されていた(岐阜県史)。しかし、平城宮跡より出土した墨書土器に「美濃国安八郡壬生郷」とあり、異筆ではあるが、天平一八年(七四六)一一月二〇日の日付が記されている。壬生みぶ郷は「和名抄」安八郡にはなく当郡にあるので、天平末年頃にも分立していないことが知られるが、奈良時代末から平安時代初め頃までには分立したと考えられよう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報