御野郡(読み)みのぐん

日本歴史地名大系 「御野郡」の解説

御野郡
みのぐん

和名抄」東急本・刊本に「美乃」の訓がある。古代―近世を通じて「三野」の表記が併用されたが、近代には御野郡で訓は「ミノ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。「和名抄」は枚石ひらし広世ひろせ出石いずし・御野・伊福いふく津島つしまの六郷をあげており,令制の区分によれば下郡にあたる。式内社としては石門別いわとわけ(二社)尾針おはりあま伊勢いせ天計あまはかりくに尾治針名真若比女おじはりのなまわかひめの八社がある。中世以来所在不明となった神社も多く、近世および明治以後に復興・比定されたものもある。旭川河口デルタの上に成立した郡で、東は上道郡、北は赤坂あかさか郡、北から西は津高つだか郡、南は海に面し,一部が備中国都宇つう郡と接する。およそ現岡山市の旭川西岸からささ川東岸までの地域にあたる。

郡域内には多くの遺跡がある。朝寝鼻あさねばな貝塚は縄文後期の貝塚である。津島つしま遺跡は縄文後期から中世にわたる複合遺跡であるが,とくに弥生前期から後期にかけて継続する広大な集落遺跡として名高い。弥生初期の水田跡、前・中期の畦畔や杭列、後期の水路と乾田跡、穴倉・住居跡・祭祀遺構など当時の生活全体を物語っており、遺物も豊富である。南方みなみがた遺跡は弥生前・中期と古墳時代前期の複合遺跡で、土壙墓群・甕棺や壺棺墓・竪穴住居跡・柱穴群のほか多様な土器・石器が出土している。上伊福九坪かみいふくくのつぼ遺跡は弥生中期から古墳時代前期を中心とした複合遺跡で、集落跡や水田跡のほか弥生中期のガラス工房跡も検出されている。鹿田しかた遺跡は弥生中期から中世にかけての複合遺跡で、弥生中期のガラス滓を出土する土壙や多量の製塩土器片や壺棺なども検出される。奈良―平安前期の井戸や掘立柱建物跡もあり、これらは鹿田庄との関連を推定されている。

首長墓としては次の諸遺跡がある。都月坂とつきざか二号弥生墳丘墓は弥生後期の長方形墳丘墓で、裾に石垣状の列石をめぐらし、中央の竪穴式石室のほか約九基の土壙墓が営まれている。都月坂一号墳は特殊器台形埴輪をもつ最古期の古墳である。ななぐろ古墳群は全長約四五メートルで特殊器台形埴輪をもつ最古期の古墳を含む。当郡内最大の前方後円墳は全長約一五〇メートルの神宮寺山じんぐうじやま古墳で、四世紀末から五世紀初頭の築造と推定されており、後円部の竪穴式石室の副室から多数の鉄製農工具や武器が出土した。また一本松いつぽんまつ古墳は全長約六五メートルの帆立貝形前方後円墳で、甲冑・武器などを出土している。

〔古代〕

文献にみえる有力首長勢力としては三野臣氏が知られる。「日本書紀」応神天皇二二年九月一〇日条によると、同氏は御友別の子で三野県に封じられた弟彦を始祖とする伝承があり、「国造本紀」は弟彦を最初の三野国造とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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