仏海(読み)ぶっかい

朝日日本歴史人物事典 「仏海」の解説

仏海

没年:明治36.3.20(1903)
生年:文政11.5.9(1828.6.20)
江戸末期から明治時代の出羽湯殿山の一世行人。越後国(新潟県)村上の商人近藤庄助の長男。幼名庄次郎。16歳のとき,背負っていた近所の子供を誤って地面に落とし,出家を志す。弘化2(1845)年注連寺で入門。1000日,湯殿山奥の院近くの仙人沢で山籠修行を2度行う。文久2(1862)年より木食行を生涯続け,土中入定を志すが法律で許されないため,埋葬後,3年して掘り出すよう遺言して入滅。その後の昭和36(1961)年,日本ミイラ研究グループにより発掘,ミイラ化されて,観音寺(新潟県村上市)に即身仏として祀られた。その墓は切り石で石室がつくられ,底には鉄棒井桁を組んでその上に棺を乗せ湿気を防ぐ工夫がしてあった。入定塚の構造を推定する上で貴重な資料。<参考文献>日本ミイラ研究グループ編『日本ミイラの研究』

(内藤正敏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「仏海」の解説

仏海 ぶっかい

1828-1903 江戸後期-明治時代の行者
文政11年5月9日生まれ。湯殿山で修行をつみ,終生木食行をつづける。郷里新潟県村上の観音寺住持となり,明治36年3月20日死去。76歳。遺言により結跏趺坐(けつかふざ)の姿で石室に埋葬された。昭和36年発掘調査され,そのミイラが即身仏としてまつられた。俗名は近藤庄次郎。

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