村上(読み)むらかみ

精選版 日本国語大辞典 「村上」の意味・読み・例文・類語

むらかみ【村上】

新潟県北部の地名。日本海に面し、三面(みおもて)川支流の門前川の流域を占める。中世、臥牛山に山城が築かれ、のち、ふもとに平城の舞鶴城が築かれた。江戸時代は内藤氏五万石の城下町堆朱(ついしゅ)・山辺里織・村上茶・サケが特産物。磐舟柵(いわふねのき)の遺跡がある。昭和二九年(一九五四)市制。

むら‐かみ【村上】

〘名〙 村の上の方。村の上手。
※綿(1931)〈須井一〉一「少し雨が降るとすぐ村上に当る窪地堤防が押し切られ、部落の窪地地帯へ氾濫するのだった」

むらかみ【村上】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「村上」の意味・読み・例文・類語

むらかみ【村上】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「村上」姓の人物
村上華岳むらかみかがく
村上鬼城むらかみきじょう
村上元三むらかみげんぞう
村上専精むらかみせんしょう
村上浪六むらかみなみろく
村上春樹むらかみはるき
村上英俊むらかみひでとし
村上実むらかみみのる
村上義光むらかみよしてる
村上竜むらかみりゅう

むらかみ【村上】[地名]

新潟県北端の日本海に面する市。もと内藤氏の城下町。村上茶・村上堆朱ついしゅの産地。瀬波せなみ温泉磐舟柵いわふねのさく古跡がある。平成20年(2008)に荒川町神林村朝日村山北町と合併。人口6.6万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「村上」の意味・わかりやすい解説

村上[市] (むらかみ)

新潟県北東端の市。2008年4月旧村上市と荒川(あらかわ)町,山北(さんぽく)町,朝日(あさひ)村,神林(かみはやし)村が合体して成立した。人口6万6427(2010)。

村上市中東部の旧村。旧岩船郡所属。人口1万1489(2005)。磐梯朝日国立公園に属する朝日山地三面(みおもて)川の盆地からなり,村としては県内一の面積(626km2)をもっていた。村域の90%以上を山林が占め,県下最大の用材・薪炭の産地であり,朝日スーパー林道など林道開設事業が進められている。戦国時代は上杉氏が支配し,高根の鳴海金山は戦国末期に上杉氏らが開発し,慶長~元和期(1596-1624)に最盛期を迎えた。現在もアリの巣状に掘りつくされた遺構が残る。三面川上流の三面は平家落人村と伝えられ,またぎの伝統的な狩猟習俗や狩りの装備が残されていたが,奥三面ダムの建設により,1985年に集団移転している。

村上市南端の旧町。旧岩船郡所属。人口1万1105(2005)。荒川下流の南岸に位置し,扇状地性平野と背後の山地からなる。鎌倉時代には荒河保があり,地頭の河村氏が支配した。羽州街道(国道7号線)と米沢街道(国道113号線)の分岐点で,坂町は,1936年羽越本線から分岐する米坂線が全通して以来町の中心市街地として発達した。沖積平野は荒川米の産地として知られる。58年には,荒川の谷口の貝附に農業用水取水堰が建設され,土地改良が進められていたが,67年の羽越水害で,取水堰近くの貝附,花立の集落は壊滅的被害を受け,集団移転が行われた。近年は畜産やチューリップ,クロッカスの球根栽培も盛んである。

村上市南部の旧村。旧岩船郡所属。人口1万0135(2005)。越後平野の最北端,荒川下流の北岸に位置し,荒川のはんらん原とかつての岩船潟の低湿地からなる。西は蒲原砂丘の北端部からなり,日本海に面する。平林は,中世には色部氏の領地で,要害山(加護山)に築かれた平林城跡は中世の典型的山城として県史跡に指定されている。神納郷は早場米として知られる荒川米の産地で,水田単作の穀倉地帯であるが,近年は畜産などをとり入れた複合経営化が進み,食品加工も盛ん。JR羽越本線が通じ,隣接する旧村上市への通勤者も多い。

村上市北部の旧町で,日本海に臨む。旧岩船郡所属。1965年町制。人口7921(2005)。越後山脈の北端にあたる朝日山地西端と浸食性の岩礁海岸からなる。古くは山北郷と呼ばれた地域で,大川の渓谷にあってJR羽越本線,国道7号線が通じる中心集落の府屋には,天文年間(1532-55)上杉氏の北端の守りとして大川城が築かれた。町域の90%以上は山林で,県下有数の木材生産高を上げている。寝屋漁港をはじめ五つの漁港があり,沿岸漁業も営まれる。南部の岩礁海岸は笹川流(ささがわながれ)の名で知られる景勝地で,1970年海岸道路として国道345号線が開通後は民宿も増加している。勝木の筥堅(はこがた)八幡宮社叢は南方系植物の北限(天)である。

村上市中西部の旧市。1954年市制。人口3万0685(2005)。三面川下流に位置し,東部は三面川支流の門前川流域の山地からなる。日本海に臨む西部は南半が越後平野北端にあたり,瀬波海岸には砂丘が発達する。北半は山地が海岸まで迫り海府浦と呼ばれ,岩石海岸が多い。中心の村上は中世から近世を通じ城下町として栄え,鍵形の道路など城下町のなごりがみられる。市街地東の臥牛(がぎゆう)山(135m)には山城跡の石垣が残る。藩の奨励と保護により,江戸後期から村上堆朱(ついしゆ)の生産が増加し,また商業的栽培地としては北限として知られる村上茶や三面川のサケなどの特産が生まれた。第2次大戦後,三面川の電源開発に伴い化学工場が立地し,近年は食品,電気機器の他,航空機関連企業も進出している。南西の海岸の岩船は古代に磐舟柵(いわふねのさく)があったところといわれ,《延喜式》に石船・西奈弥(せなみ)両神社がみえる。北西35kmの海上にある粟島は岩船郡に属し,石川河口の岩船港から定期航路がある。瀬波海岸には瀬波温泉がある。
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越後国の城下町。平安時代の小泉荘の本荘の地で,鎌倉初期に秩父行長が地頭として入封した。戦国時代,その子孫の本庄繁長は臥牛山を要害として上杉謙信に抗した。1597年(慶長2)《越後国絵図》に〈村上町,家合弐百五拾弐間〉とあり,町名の初出である。98年村上頼勝(9万石)が入封して近世城郭と城下町に整備し,1618年(元和4)堀直寄(なおより)(10万石)のとき発展した。榊原政倫(15万石)のころ絶頂期を迎え,1718年(享保3)831軒,1733世帯に達したが,それ以後は入封大名の知行高の減少により武家屋敷に空家を生じ,町の発展も停滞した。特産の村上茶は1620年徳光屋覚左衛門が栽培を開始し,17世紀後半にその地位を確立した。三面川のサケ漁は1702年(元禄15)には運上金が166両にのぼり,宝暦期(1751-64)に藩主内藤信敦は種川の制を実施して保護をはかった。堆朱は江戸後期に発展の基礎を作った。
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世界大百科事典(旧版)内の村上の言及

【越後国】より

…越後国知行高45万石。秀治は与力大名として村上頼勝(村上藩),溝口秀勝(新発田藩)を従えたが,いずれも豊臣取立て大名であった。秀治は同年1反360歩の中世的田制ながら太閤方式で領内総検地を行い,1600年には会津から侵入した上杉軍およびこれに呼応した越後一揆(上杉遺民一揆ともいう)を平定して,関ヶ原戦の前哨戦に徳川氏に忠勤を尽くした。…

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