今津村(読み)いまづむら

日本歴史地名大系 「今津村」の解説

今津村
いまづむら

[現在地名]西宮市今津山中町いまづやまなかちよう今津曙町いまづあけぼのちよう今津水波町いまづみずなみちよう今津二葉町いまづふたばちよう今津出在家町いまづでざいけちよう今津西浜町いまづにしはまちよう今津野田町いまづのだちよう今津上野町いまづうえのちよう今津社前町いまづしやぜんちよう今津港町いまづみなとちよう今津大東町いまづおおひがしちよう今津巽町いまづたつみちよう今津真砂町いまづまさごちよう今津久寿川町いまづくすがわちよう甲子園春風町こうしえんはるかぜちよう甲子園浜田町こうしえんはまだちよう甲子園浦風町こうしえんうらかぜちよう甲子園砂田町こうしえんすなだちよう甲子園三保町こうしえんみほちよう甲子園六石町こうしえんろつこくちよう甲子園高潮町こうしえんたかしおちよう甲子園洲鳥町こうしえんすどりちよう甲子園網引町こうしえんあびきちよう上甲子園かみこうしえん三―五丁目・高畑町たかはたちよう津門飯田町つといいでんちよう

武庫むこ川や御手洗みたらし(下流は東川)などによって形成された三角洲の先端部にあり、南は大阪湾。ひがし川を隔てて西は西宮町に接し、武庫郡に属する。弘安元年(一二七八)閏一〇月二一日の紀為兼田地売券に「字今津」がみえ、田二反が一七貫五〇〇文で秦貞氏に売られており、条里坪付は武庫西条四条一三里三一坪内西依であった。正応五年(一二九二)閏六月一〇日の秦永久名田・船・所従譲状によると、船三艘・所従七人を有する永久の田地・東船江屋敷などが今津にあり、今津付近が港湾的性格をもち、海運業を営む者がいた可能性が高い。鎌倉時代末から南北朝期にかけて、字今津の田地を有していた秦氏の女子らが次々に土地を転売している(応長元年一二月一三日秦氏女田地売券・建武元年一二月一〇日秦カムコ女田地売券・暦応元年六月一五日秦熊鶴女田地売券)。康暦元年(一三七九)閏四月二六日宗肇田地寄進状のように、鳴尾なるおに建立された長蘆ちようろ寺に対する田地の売却・寄進が増加し、永徳二年(一三八二)二月日の長蘆寺領宗算跡田地坪付注文にも、実善が耕作する今津の田地一反がみえる(以上、大徳寺文書)。海浜に面した低地であるため、弘治三年(一五五七)八月二六日には高潮で被害を受けた(足利季世記・細川両家記)。永禄九年(一五六六)六月二三日、越水こしみず城を攻撃した篠原長房以下二万五千騎が西宮に進出した際、東の方は「高木・今沢」などに陣取っている(細川両家記)

近世には村北部を横断する中国街道によって北組と南組とに分れ、北組は上今津とも称し街道沿いに集落を形成、下今津ともいわれる南組は酒造業・海運業などにより浜のほうへ発展していった。南組を今津浜いまづはま村ということもあった。慶長国絵図に今津村とみえ、高五一九石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳は、高二三三石余で蔵入地の今津村(北組)と、高二八六石で旗本伏屋領の今津浜村(南組)に分記。伏屋領は文禄三年(一五九四)一〇月一七日に豊臣秀吉より宛行われたもの(「豊臣秀吉判物」記録御用所本古文書)

今津村
いまづむら

[現在地名]西区今津

糸島いとしま半島南東端にあり、志摩しま郡に属する。南は桑原くわばら村・元岡もとおか村、北は小田こた村・草場くさば村に接する。村域は東側の毘沙門びしやもん山・浜崎はまさき山の山麓部、西側の柑子こうじ岳の山麓部、両者をつなぐ長い砂丘帯(長浜)、そして南側入海の干拓地からなる。村の南で西に入り込む入海は、当初糸島半島西海岸まで通じていたが、開発によって東西の入海に分れ縮小していったとされる(続風土記)。中世には怡土いと庄志摩方に属する湊、今津であった。小早川時代の指出前之帳では今津村は田三三町六反余(分米三八七石余)、畠六二町五反余(分大豆二五一石余)。慶長三年(一五九八)分の志摩郡物成帳(朱雀家文書)では高六三八石余、物成五一六石余、うち大豆一九六石余。同七年の検地高は一千六〇八石余(慶長石高帳)。近世初期には浦分の今津浦が成立しており、中期までに同分浜崎浦が成立した。元禄五年(一六九二)には高一千六一九石余(田圃志)。元禄国絵図には今津村の内として浜崎村・大原おおばる村がみえる。享保二年(一七一七)時点では村位は上、田五二町余・畠一一〇町六反余、高一千六一九石余。うち田二町三反余・畠一〇町七反余、高一四一石余は今津浦分(「志摩郡村々田畠畝高帳」鎌田家文書)。石高書上帳案の郡帳高も田圃志、畝高帳と同じ。

今津村
いまづむら

[現在地名]今津町今津・今津住吉いまづすみよし今津中沼いまづなかぬま今津名小路いまづなこじ今津松陽台いまづしようようだい今津舟橋いまづふなばし今津桜町いまづさくらまち

琵琶湖に面し、西近江路に沿い、ここから九里半くりはん街道が分岐する。北は新保しんぼ村、西は大供おおとも村、南は木津こうつ(現新旭町)。「輿地志略」に「東湖中に出でたる町にして、西の方僅に陸地に続き一島の如し、民家四百余家あり、船着にして繁昌の処也」とある。木津が古津であるのに対し、後から湊となったための村名といわれる。中沼から琵琶湖に通じる小川をなかノ川といい、その南を南浜、北を北浜とよぶ。中沼は船だまりとして利用された。「源平盛衰記」巻二八(源氏追討使事)によると、寿永二年(一一八三)四月に平氏軍が木曾義仲追討のため「木津の宿」から「今津」を通過している。暦仁元年(一二三八)一二月三日の四条天皇宣旨案、建治二年(一二七六)一〇月二一日の太政官符案(ともに摂津勝尾寺文書)にみえる延暦寺東谷金剛寿こんごうじゆ院領の「今津浜」は当地に比定されるが、三津みつ(現大津市)のうちの今津とも考えられる。嘉吉三年(一四四三)には太良たら(現福井県小浜市)の正覚院宝永が鋳造した鐘が、同庄百姓らの手で当地に運ばれ、琵琶湖を経て京都東寺に運送されている(年欠四月二七日・一一月日「太良庄百姓等申状」東寺百合文書など)。また文明一一年(一四七九)六月、加賀から京都に帰る前権大納言中院通秀は、当地から坂本まで船で渡っており(十輪院内府御記)、問丸の存在(河原林文書)と合せて、水上交通の要衝となっていた。

今津村
いまづむら

[現在地名]鶴見区今津〈みなみ一―四丁目・なか一―五丁目・きた一―五丁目〉など

東成ひがしなり放出はなてん村の東にある。河内茨田まんだ郡南西端に位置し、北の村境を徳庵とくあん川が西流、同川堤上を古堤ふるづつみ街道が通る。宝永元年(一七〇四)の大和川付替え以前は、東方新開しんかい(現東大阪市)より流出した水が村の南東境を流れ、楠根くすね川・長瀬ながせ川を合流して北西に向かっていた。集落は南東部川沿いの自然堤防上にある。延応元年(一二三九)一二月二五日の四条天皇宣旨(門葉記)に「河内国今津庄」とみえる。妙法院門跡二品尊性法親王の家領であったが、同親王の遺言により弟子で土御門天皇皇子の無品尊守法親王に譲られている。康永三年(一三四四)七月日付の無品親王庁解(妙法院文書)にも、後白河院より京都新日吉社創建の際与えられた同社検校職に付属する所領の一として今津庄がみえる。なお、久安元年(一一四五)の近衛天皇綸旨(「河内国小松寺縁起」所引)に今津がみえるが、この文書は検討の余地がある。

今津村
いまづむら

[現在地名]岩国市山手町やまてまち一―四丁目・今津町いまづまち一―二丁目・同四丁目・同六丁目・川口町かわぐちまち一―二丁目・日の出町ひのでまち桂町かつらまち一―二丁目・三笠町みかさまち一―三丁目の全域と元町もとまちの大半、および麻里布町まりふまちの南半分

にしき川の下流今津川の河口北岸に位置し、北は室木むろのき村、西は錦見にしみ村に接する。

寛永二〇年(一六四三)に岩国庄を分割してできた村であるが、今津の名は、岩国藩の城下町ができた慶長六年(一六〇一)頃までさかのぼると考えられる。白崎しらさき八幡宮拝殿の棟札には「防州玖珂郡岩国庄今津」「慶長十六年辛亥長月良辰」とある。今津は文字どおり新しい港の意味だが、「玖珂郡志」は「今洲ト古書ニ有リ」という説を掲げる。

今津村
いまづむら

[現在地名]淀江町今津

美保みほ湾に流入する妻木むき川の河口に位置し、南西は淀江村、北東は鶴田つるた(現大山町)。村名は古くから湊のある淀江村に対し、新しく湊ができた土地であることに由来するという。天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)に「拾八貫 今津」とある。藩政期の拝領高三七五石余、本免四ツ二歩。鵜殿氏の給地(給人所付帳)。藪役銀三匁が課されていた(藩史)。延享三年(一七四六)の汗入郡御通筋村々厘付帳(門脇家文書)によれば高四〇九石余、うち永荒高引四石余、新開高一〇石余、土免四ツ二歩・請免三ツ四歩三厘。家数三五、男一〇四・女七八、牛九・馬二。幕末の六郡郷村生高竈村では生高四一一石余、竈数六九。弘化三年(一八四六)当村の松波権兵衛は淀江村の砂浜の一部を畑にしたいと願出たが、淀江村が反対し、「今津新田」問題は以後一〇年間紛争の種となった(「歎願口上覚」淀江町史稿)

今津村
いまづむら

[現在地名]高梁市津川町今津つがわちよういまづ

松山まつやま城下と松山西まつやまにし村の北に位置し、松山川(現高梁川)東岸および有漢うかん川・佐与谷さよだに川流域に広がる。城下と備前国金川かながわ(現御津郡御津町)を結ぶ金川往来が出口でぐちから狐谷きつねだに川をさかのぼって多気庄たけのしよう(現上房郡賀陽町)方面に向かい、美作国垂水たるみ(現真庭郡落合町)とをつなぐ落合往来が出口から有漢川沿いに北上する。また、高梁川沿いには新見往来が北の川面かわも村へ延びる。今津のほか幡見はたみ地久じく辻巻つじまき・出口・佐与谷などの集落があり、辻巻には松山藩の番所が置かれていた。

寛永備中国絵図に村名がみえ、高一六二石余、松山藩領(以後の領主の変遷は松山西村に同じ)

今津村
いまづむら

[現在地名]福山市今津町・今津町二―三丁目

本郷ほんごう村の南、ひがし村南東に位置し、東は村に接する。本郷村から流下した本郷川が村内を南流して松永まつなが湾に入る。東村寄りの丘陵上に長波おさば遺跡・長波古墳群があり、前者からは古墳時代の竪穴住居跡が検出されている。文明一七年(一四八五)閏三月二九日付の備後国尾道権現堂檀那引注文(熊野那智大社文書)に「新庄之内今津」とあり、本郷村を中心に付近の地で構成された新庄しんじように含まれていた。「備陽六郡志」は村内鎮座のつるぎ神社神主河本家のことを記した条に「寛文の比まて此辺は遠干潟にて、宗四郎屋敷の門前迄入河也けるか、潟は田畠となり、河は町家建並ひ九州往還の駅となりて河本といへる形もなし」と記す。

今津村
いまづむら

[現在地名]中津市今津

犬丸いぬまる川河口の漁村。西は諸田もろた村、北は周防灘。嘉暦三年(一三二八)六月日の池永重頼解状(野中文書)の沙弥真仏の裏書に「いまつの又四郎入道」とある。大永六年(一五二六)頃には「今津万福寺拘内、彦二郎公役之地之内、五段自押領□段致注進候処、被成召文候へ共、無承引候」と(年未詳四月四日「永弘重行書状案并永弘氏寄進地坪付案」永弘文書)万福まんぷく寺があったことが知られるが、今はない。宮時みやとき庄内に「万福寺地蔵院領」があり(年月日未詳「某書状」同文書)、この庄の作職所持者に「今津殿」がみえるから、両者の関連が推定される。

今津村
いまづむら

[現在地名]西郷町今津・岬町みさきちよう

西田にしだ村の南に位置し、南より東にかけては海に臨む。正保国絵図に村名がみえ、「隠州視聴合紀」には今津湊とある。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田三四石余・三町八反余、畑一一石余・一〇町四反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)一五匁・漁請役七三匁四分・和布三束役六分・鰤三本役三匁六分・核苧四五〇目役一匁二分、家数三四(百姓一六・間脇一八)のうち御役目屋敷一五、人数二一四、牛二〇・馬一二、大船七・艫戸船一三・手安船三〇。

今津村
いまづむら

[現在地名]安来市今津町。

坂田さかだ村の東に位置する。村域は南北に狭長で、北は中海に臨み、南端西部は飯梨いいなし川に面している。

〔中世〕

文明一一年(一四七九)八月一六日の京極政経判物(佐々木家文書)に「下今津」がみえ、尼子経久に対し当知行にしたがって同所を領掌することが認められている。今津とは新しい港津の意味と考えられ、戦国期における流通と水運の発達にともなって、飯梨川の下流域に新しく成立したものと推測される。港津としての成立時期は明らかでないが、文明一一年当時すでにそれが地名として定着し、かつ上下に分れていたと考えられることから、室町時代にさかのぼるかもしれない。

今津村
いまづむら

[現在地名]亀岡市千代川ちよかわ町今津

東に大堰おおい川が南流し、北は千原ちわら村、西は小川おがわ村、南は高野林たかのばやし村。村内を千原村からの愛宕あたご道が通り、当村から大堰川対岸の馬路うまじ村へは渡しで結んでいた。寛政十一年丹波国大絵図は当地を「今津新田」と記す。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高八五・〇七七石、戸数二四、亀山藩領。農作は五穀のほか綿などを産した。

寛永二年(一六二五)馬路村の人見久兵衛が当地辺りの荒廃地の開拓を企て、人見太郎兵衛・中川治郎左衛門・人見彦之丞・中川加兵衛・人見伝助らと計り、代官五味金右衛門に請願し、その許状を得て新田を開発した。その時の許状(人見家文書)は次のようなものであった。

今津村
いまづむら

[現在地名]門司区今津

はた村の東に位置する。東は周防灘に面し、北は猿喰さるはみ村に接する。東方の入江に大島・小島からなる津村つむら島がある。もとは畑津といい、畑村のうちという。元和八年人畜改帳に今津浦とみえ、高三二石余、家数二九、人数八〇(うち加子役仕者五・川口番一・名子二)。宝永三年(一七〇六)の検地帳(企救郡誌)では田畠四町四反余。天明五年(一七八五)の家数九八・人数四四七、船四二(「浦々浜手続支配構間数」門司郷土叢書)

今津村
いまづむら

[現在地名]平舘村今津

東は陸奥湾に臨み、南はすぎ村、西は清水股しみずまた岳を隔てて小国おぐに(現蟹田町)、北は野田のだ村に接する。

稲荷神社の社伝によると、寛文年間(一六六一―七三)越前からの移住民によって開かれたといい、北の根岸ねぎしとともに福井姓が多い。貞享四年(一六八七)の検地帳に野田村の支村として村名がみえ、村高はわずかに四・六七九石にすぎない。検地前までは小舘真綿新田とよばれていた。

今津村
いまづむら

[現在地名]城崎町今津

湯島ゆしま村の南、円山まるやま川下流左岸に位置する。江戸時代の領主の変遷は湯島村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえ、高一一八石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高一〇六石余。延享三年(一七四六)の村明細帳(今津区有文書)によると延宝四年(一六七六)に豊岡藩の検地があり高一一七石余となる。反別一二町一反余。家数五二・人数二五〇、牛四、川船四〇。氏神一(現三柱神社)。明治七年(一八七四)の村限調帳(同文書)では戸数五一・人数二六七、牛二、川船三四。

今津村
いまづむら

[現在地名]丸亀市今津町・前塩屋町まえじおやちよう二丁目・天満町てんまちよう一―二丁目

津森つのもり村の西、城下の西方に位置する南北に長い村。寛永国絵図に村名がみえ、那珂なか柞原くばら郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高九三一石余、うち一石二斗は中分宮領。同宮は中府なかぶ村の会下天満えげてんまん神社か。「西讃府志」によると高四四二石余、反別は四八町五反余、うち畑四町四反余・屋敷一町七反余。

今津村
いまづむら

[現在地名]西区玉津町今津たまつちよういまづ

櫨谷はせたに川が明石川に合流する辺りの櫨谷川左岸に位置し、南は西河原にしがわら村。慶長国絵図に「津ノ別苻村」とみえる。正保郷帳には津別苻村とあり田方五三二石余・畑方四三石余、小松山あり。元禄郷帳も「津ノ別府村」、天保郷帳では今津村とみえ、「古は津別府村」と肩書され、高五九七石余。明石藩領中里組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると津別苻村の高五七五石余、東西一町・南北二町半。

今津村
いまづむら

[現在地名]加古川市尾上町養田

慶長国絵図に村名がみえ、養田ようた村の西、加古川左岸河口付近に位置を記す。慶長六年(一六〇一)姫路城主池田輝政は諸役免除、付近の在所の者で無役農民・町人が今津へ移住すること、砂浜の開作を進めることの三ヵ条の定書(加藤家文書)を「今津町」へ出しており、藩は積極的に町場を形成することを意図した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報