デジタル大辞泉
「今井慶松」の意味・読み・例文・類語
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今井慶松
いまいけいしょう
(1871―1947)
山田流箏曲(そうきょく)家。本名新太郎。横浜生まれ。4歳で失明。9歳で箏曲入門。14歳で上京し初世山勢松韻(やませしょういん)(山勢派3代目)に師事し、23歳で慶松と称する。27歳で東京音楽学校助教授、31歳で教授となり、61歳で退職するまで長く後進の指導にあたった。1942年(昭和17)芸術院会員となる。日本三曲協会会長、山田流箏曲協会会長などを務めた。技巧派の演奏家として知られ、『新晒(しんざらし)』の演奏はとくに有名。作品は『御代万歳(みよまんざい)』『鶴寿千歳(かくじゅせんざい)』など古典的手法のもの50余曲あるが、すでに明治期に、純器楽曲の『四季の調(しらべ)』もある。
[平山けい子]
『藤田俊一著『今井慶松芸談』(1959・日本音楽社)』
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今井慶松 (いまいけいしょう)
生没年:1871-1947(明治4-昭和22)
山田流の盲人箏曲家。横浜生れ。本名新太郎。3世山勢松韻に師事。1902年東京音楽学校教授。42年芸術院会員。技巧派の演奏家として有名で,作品は《四季の調》《御代万歳》《鶴寿千歳(かくじゆせんざい)》など50曲余。自伝《松の吹き寄せ》(1939)がある。門下に妻の久仁子,娘の慶子(中能島欣一の妻)のほか,伊藤松超など逸材が多い。
執筆者:久保田 敏子
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今井慶松 いまい-けいしょう
1871-1947 明治-昭和時代の箏曲(そうきょく)家。
明治4年3月25日生まれ。4歳で失明。山田流箏曲の3代山勢松韻に師事。明治35年東京音楽学校(現東京芸大)教授となる。昭和15年日本三曲協会初代会長。17年芸術院会員。箏曲の技巧をきわめた「新晒(しんざらし)」などの演奏で知られる。昭和22年7月21日死去。77歳。相模(さがみ)(神奈川県)出身。本名は新太郎。作品に「四季の調」など。
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今井慶松
いまいけいしょう
[生]明治4(1871).3.25. 横浜
[没]1947.7.21. 東京
山田流箏曲家。本名新太郎。幼時失明,14歳で上京,3世山勢松韻に師事。 1898年東京音楽学校教授,1942年帝国芸術院会員。日本三曲協会会長。山田流箏曲協会会長。作品は処女作『御代の春』はじめ『四季の調べ』など多数あり,技巧派の演奏家としても有名。
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今井慶松【いまいけいしょう】
山田流箏曲家。横浜生れ。本名新太郎。4歳で失明。3代山勢松韻に師事。技巧派の演奏家として知られ,戦前の東京の箏曲界を代表した。1902年東京音楽学校教授。1942年芸術院会員。《四季の詞(しきのしらべ)》《鶴寿千歳(かくじゅせんざい)》など約50曲を作曲。
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世界大百科事典(旧版)内の今井慶松の言及
【山勢派】より
…なお,86年から訓盲啞院(後の東京盲啞学校,現在の筑波大学附属盲学校)をも兼務。門下には,初世[萩岡松韻],[今井慶松]のほか,女流演奏家も数多く輩出。作品には,前記《都の春》のほか《朧月》(1874),《花の雲》(1880),《松島八景》(1892),《四季の友》《新年》などがある。…
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