五十人町(読み)ごじゆうにんまち

日本歴史地名大系 「五十人町」の解説

五十人町
ごじゆうにんまち

[現在地名]米子市中町なかまち西町にしちよう

なかノ町の北側、外堀(一部は加茂川)の内側に沿ってほぼ東西に並ぶ足軽町。宝永六年(一七〇九)の伯耆国米子平図および享保五年(一七二〇)の湊山金城米子新府(ともに県立博物館蔵)では五十人鉄砲ごじゆうにんてつぽう町とみえてのちの片原かたはら町を含み、近世中期以降のものとみられる伯州米子之図(同館蔵)では五十人町とある。北側外堀には東倉吉ひがしくらよし町との間に藪根やぶね橋が架かり、橋北の小路を鉄砲小路と称した。

五十人町
ごじゆうにんまち

[現在地名]金沢市白菊町しらぎくちよう千日町せんにちまち

犀川左岸の大橋詰より西に入り、縦横数町に延びる両側町。東は裏千日うらせんにち町、南は北石坂きたいつさか町、西は白菊町町名は、足軽五十人組の組地の一つであったことによる。石坂を冠称し、三社さんじやの五十人町と区別された(金沢古蹟志)。なお、五十人組は藩主前田利家が越前府中ふちゆう(現福井県武生市)において、鉄砲之者五〇人と小頭五人を召抱えたのが始まりという(「足軽組宛行考」金沢古蹟志)

五十人町
ごじゆうにんまち

[現在地名]仙台市五十人町

三百人さんびやくにん町の南裏にある足軽町で、西の通町南鍛冶みなみかじ町まで東西に長く整然と屋敷が並ぶ。足軽衆五〇人が居住したゆえの町名といい(仙台鹿の子)、町割出は三百人町が成立したとされる寛永七年(一六三〇)前後と思われる(東藩史稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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