久米村(読み)くにんだ

日本歴史地名大系 「久米村」の解説

久米村
くにんだ

[現在地名]那覇市久米くめ一―二丁目・松山まつやま一―二丁目など

現那覇市中央西部の海辺近く、久茂地くもじ川沿いに位置する。北から南は那覇に囲まれ若狭町わかさまち村・ちーじ村・西にし村・ひがし村・泉崎いずんざち村、東は当村から分離して成立した久茂地くむじ村、北東はとうまい村に接する。間切集成図によると村域は黄色で描かれ、南の一部は那覇の入江(那覇港)に臨む。近世史料には唐営とうえいともみえ、のち唐栄(唐栄邑)に改めた(「琉球国由来記」、「球陽」尚質王三年条)。冊封使録類では営中えいちゆうと称し、ほかに朱明府・枯米所ともみえる。

〔成立と古琉球の様子〕

中国明代の洪武二五年(一三九二)中国皇帝から福建のびんじん三十六姓の集団が琉球に遣わされ、中山王府の保護下で当地に定住したことに始まるという(中山世鑑・琉球国由来記)。実際は中山王察度が洪武帝の招諭に応じて朝貢を開始した時には、すでに中国からの移住者がいたとも推測される。一五世紀に入ると王茂や懐機ら中国人が王府高官として仕え、外交を担った(「中山世譜」など)。王茂は「明実録」永楽元年(一四〇三)三月辛卯条に長史王茂とみえ、懐機は同一六年三月壬子条に中山王の長史としてその名がみえる。長史は進貢の使臣を勤めた。この役職名は近世にも引継がれたが、しだいに久米村総役を補佐する内政の職務となった。「海東諸国紀」所収の琉球国之図に「那波津」などと並んで「久面里」とあり、当地に比定される。また同書の琉球国紀には「有左右長史二人」とある。一五世紀の様子は琉球に漂着した朝鮮人の漂流記にみえ、「李朝実録」世祖八年(一四六二)二月辛巳条によると、一四五六年二月に琉球に漂着した梁成らの見聞記に水辺(那覇港)の公館近くに「土城」一〇〇余家があるとされており、「土城」を当地に比定する説がある。また市は江辺にあり、南蛮・日本国・中原の商船が来て商いをするとあり、那覇・久米の様子を示したものであろう。同書燕山君七年(一五〇一)正月辛未条には琉球国使臣は世祖朝のときに来聘したが、今年も来ているのでその国の風土・人物などを詳しく聞いて「海東諸国紀」の末に書き記すとあり、「一、長史二員・正議大夫二員用事者也、並以中朝人来居者為之」とあるのは当地に関する記述である。なお一五二七年頃の「幻雲文集」の鶴翁字銘并序には「曰久米村、昔大唐人百余輩、来居此地而成村」とある。

琉球への中国人の往来は初めの頃は当時東南アジアに展開した華人社会の様相と類似し、王府公認の下で独自の交易活動を行っていたものとみられる。

久米村
くめむら

[現在地名]徳山市大字久米・桜木さくらぎ二丁目の各全域、および五月さつき町・横浜よこはま町・平原ひらばら町・桜木一丁目・同三丁目・じようおか二―四丁目の各一部

徳山湾の東北奥に位置する村で、西は徳山村、東は末武上すえたけかみ(現下松市)。萩藩領で都濃宰判に属した。

「和名抄」に都濃つの郡内の郷として「久米」が記される。中世には久米保・久米郷とよばれているが、この久米郷は近世の久米村域より広い地であったらしく、弘治三年(一五五七)八月二八日付の杉松千代丸知行注文(「閥閲録」所収杉七郎左衛門文書)に「百五拾石 都濃郡内久米郷 但怒久見・世戸両畑除之」とあり、久米郷には北東部の現下松くだまつ温見ぬくみや同瀬戸せとなども含まれていたらしい。伊勢神宮の守札を配った御師の手控である中国九州御祓賦帳の享禄五年(一五三二)分に「くめの市 二郎衛門殿」「くめのうまんのしき 光寿寺」などとある。

慶長五年(一六〇〇)の検地帳では久米郷として総石高一千八六二石余。同一五年の検地帳では久米村とし総高三千一三七石余、うち田方が一七九町余で高二千五九七石余、畠方が三七町余で一六九石余、百姓屋敷二一六、市屋敷二二、浦屋敷一三七、浦浮役一七九石、塩浜方六石余を記す。

久米村
くめむら

[現在地名]所沢市久米・西所沢にしところざわ一丁目・金山町かなやまちよう星の宮ほしのみや一―二丁目・東住吉ひがしすみよし西住吉にしすみよし南住吉みなみすみよし日吉町ひよしちよう

所沢村の南にあり、西は荒幡あらはた村、東は多摩郡久米川くめがわ(現東京都東村山市)、南は同郡野口のぐち(現同上)など。北西から南へ柳瀬やなせ川が流れる。東方を鎌倉街道上道が北へ通っていた。村山党の山口家俊の子小七郎家高は久米氏を称しており(「村山党系図」諸家系図纂)、当地を本貫の地としたとみられる。嘉元三年(一三〇五)五月八日の長井長家譲状案(小杉本淡路古文書)によれば、長家は久米郷のうちの田・在家・屋敷・林、「ところさわのしゆく」などの三分の一をおとはち丸に譲っている。当地の永源えいげん寺にかつてあったとされる応永二九年(一四二二)九月の梵鐘銘には「武州入東郡久米郷」とある(風土記稿)

江戸期には入間いるま山口やまぐち領に属した(風土記稿)。天正一九年(一五九一)五月三日旗本竹本九八郎(正重)・高井助二郎(直友)は久米郷之内で各二〇〇石を宛行われた(記録御用所本古文書)

久米村
くめむら

[現在地名]三雲村久米

三渡みわたり川と坂内さかない川に挟まれた下流平野部に位置し、村内を伊勢参宮街道が通る。一志郡と飯高いいたか郡の郡界近くにあたり、北は市場庄いちばしよう村。古代氏族の久米氏に由来する地名であろうか。小字名に五ノ坪・七の坪・八の坪などの条里地割に由来する地名や上路じよろ垣内・殿垣内・上垣内・坊垣内・檜垣内などの垣内地名がある。弥生時代以降の貝塚を伴う貝塚かいづか遺跡・若子わかこ遺跡・久米貝塚などがある。また天平時代の創立と伝える大行だいぎよう寺跡や中世の城館である久米城跡(字城出に推定)がある。中世には醍醐寺領の曾禰そね庄に含まれた。貞和三年(一三四七)九月四日の曾禰庄三ケ郷沙汰人百姓等請文(醍醐寺文書)に「下郷寂蓮、上郷円勝、久米郷右馬允」とみえ、久米郷の右馬允が沙汰人百姓の一人として年貢を請負っている。なお「神鳳鈔」の飯高郡の項に内宮領として「久米御園二斗五升」がみえる。「公文抄」には任料として「久米郷司五疋」とみえるが、員弁いなべ郡の可能性もあり、確定できない。

文禄検地帳を転記したものと思われる伊勢国中御検地高帳に「久米之郷」とみえ、石高一六一六・七八石とある。

久米村
くめむら

[現在地名]多良木町久米

黒原くろばる山から広がる複合扇状地に集落が形成され、東は湯前ゆのまえ(現湯前町)、西は宮原みやはる(現岡原村)、南は奥野おくの村、北は多良木たらき村に接する。「和名抄」球磨郡六郷中の久米郷の中心を形成していたと思われる。建久八年(一一九七)閏六月日の肥後国球磨郡田数領主等目録写(相良家文書)に「公田九百丁 豊富五百丁 地頭藤原真家 字久米三良」とあり公田豊富とよとみ郷は、久米三良が地頭として支配していた。「求麻外史」には「頼氏四子、長六郎頼宗、小字牛房丸、嗣、至頼宗并食久米村」とある。南北朝・室町期の文書には久米郷という記載が多く、近世の村より広範囲な地域をさしていたと思われる。文安五年(一四四八)雀森すずめがもり合戦、永禄二年(一五五九)獺野原うそのばる合戦では戦場となっている。

久米村
くめむら

[現在地名]上野市久米町・八幡やはた

浅宇田あそうだ村の東。北の上野台地と久米山の間を西流する久米川の低地を主とし、東西に長い。喰代ほおじろ高山たかやまの山地に発する久米川は、天喜四年(一〇五六)の藤原実遠所領譲状案(東南院文書)に上流友生ともの村の四至として「西限久米河橋」として出るのが古い。元禄三年(一六九〇)には当村から水車設置願が出ている(永保記事略)。久米河原は刑場に使われ、寛政三年(一七九一)下友生しもともの村の事件では翌年一二月にここで獄門・打首の刑が行われた(→下友生村

久米村
くめむら

[現在地名]泗水町豊水とよみず

三万田みまんだ村の南、花房はなぶさ台地の中央からやや西の台地南縁部に位置する。一六世紀前半の一一月一一日付菊池義宗義武知行坪付(津野田文書)に「久米高江」とみえ、そのうち二一町を角田右衛門尉に安堵した。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に名請人四二(うち屋敷持三六)、田五四町五反余、畠・屋敷二七町一反六畝余、分米八八三石三斗とある。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳では永村組に属し、戸数三一・家数一三八、人数一四三(うち庄屋二、きもいり二、頭百姓・小百姓二六、名子一二、下人四)、牛馬三二。持高をみると四〇石台が四戸、一〇―二〇石台が多く、一〇石以下が二戸。久米村出分は戸数一三・家数四七、人数七〇(うち庄屋二、頭百姓・小百姓一一、名子七)、牛馬一八。

久米村
くめむら

[現在地名]金砂郷村久米

山田川の東岸に位置し、集落は東山麓台地にあり、東は大平おおだいら村。天下野けがの街道が村内を南北に通る。「和名抄」の久米郷の中心地に比定される。「新編常陸国誌」の久米村の項には「鹿島宮久寿中神領目録久慈郡内ニ久米トミユ」とある。佐竹知行目録(彰考館蔵)の永禄六年(一五六三)に「久米田一町小沢屋敷 同藤七」、また無年号であるが「久米之内五貫文 小野崎備前守」とみえる。

久米村
くめむら

[現在地名]成田市久米・久米野くめの

馬場ばば村の北に位置し、北を取香とつこう川が西流する。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一六三石余、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領。ただし享保一六年(一七三一)の検地によって高請された切添新田一七石余は幕府領(旧高旧領取調帳)。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば、小物成として夫役永四八七文余がある。

久米村
くめむら

[現在地名]橿原市久米町

畝傍村の南に位置する。「日本書紀」神武天皇二年春二月の条に「天皇、功を定め賞を行ひたまふ。道臣命に宅地を賜ひて築坂邑に居らしめたまひて、ことにめぐ異みたまふ。亦、大来目をして畝傍山の西の川辺の地に居らしめたまふ。今、来目邑と号くるは、此、其の縁なり」という久米の地名説話がみえる。畝傍山以西川辺の地といえば、高取川流域、「和名抄」の久米郷にあたる。久米氏については「古事記」神武天皇段に「大伴連等の祖、道臣命、久米直等の祖、大久米命」、「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年六月二三日条には「大伴氏の遠祖日臣命、大来目をひきゐて」、同八月二日条に「乃ちひそかに道臣命に勅すらく、汝、大来目部等を帥ゐて(下略)」とみえる。

久米村
くめむら

[現在地名]岡山市久米

今保いまぼう村の北にある。東はささ川を限り、対岸西長瀬にしながせ村。同村との間には石橋(長さ二〇間)が架かり、鴨方かもがた往来が通る。西は境目さかいめ川を挟み備中賀陽郡延友のぶとも村などと接し、同村との境には宝永五年(一七〇八)国境の印杭が打たれ、享保二〇年(一七三五)には石杭に替えられた(撮要録)。枝村に北方がある。慶長七年(一六〇二)当村などのうち七七石余が下方覚兵衛に宛行われている(「小早川秀詮朱印状」黄薇古簡集)。寛永備前国絵図に村名がみえ、高五四二石余。「備陽記」によると田畑三六町二反余。元禄(一六八八―一七〇四)頃の手鑑(則武文書)では直高六六六石余、すべて山崎大蔵の給地。

久米村
くめむら

[現在地名]飯田市久米

現飯田市西部、村の西部を二ッ山ふたつやま山塊(七七三メートル)じよう(七三三メートル)・水晶山(七九八メートル)が南北に走り、その山麓の谷あいの緩傾斜地に位置。北はなか村、東は中村・伊豆木いずき村、南は伊豆木村、西は竹佐たけさ村に接する。

近世初期は飯田藩領、寛文一二年(一六七二)より幕府領、天和元年(一六八一)より美濃高須藩松平領(竹佐陣屋支配)、明治三年(一八七〇)尾張名古屋藩領となり、廃藩に至る(長野県町村誌)

天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に、

<資料は省略されています>

とあるように、久米村は久米と光明寺の二村に分れていたが、光明寺が慶長六年(一六〇一)に朝日受永より三石の寺領を寄進された(光明寺文書)時に両村が合体して久米村となったといわれる。

久米村
くんめむら

[現在地名]柏崎市久米

東は与板よいた村、西は細越ほそごえ村、南は水上みずかみ村、北は芋川いもがわ村。永正一七年(一五二〇)一〇月九日の毛利広春置文案(上杉家文書)によると、長尾為景に従って越中国新庄しんじよう(現富山市)に陣した毛利広春は、妹に分領した「くめの村」などの所領につき、東源とうげん寺・小倭将監など五名に後事を託している。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「久米大江」「久米ほそこへ」とある。

近世は元和二年(一六一六)から同四年長峰藩牧野忠成領のほかは高田藩に属し、以後は柏崎町に同じ。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では村高七九五石四升二合とあるが、これは久米谷の総高を示すもので、正保国絵図によると、その内訳は久米村高二四三石余、その枝村の三ッ子沢みつごさわ村高八六石余と細越村高二〇〇石余、水上村高二六四石余となる。

久米村
くめむら

[現在地名]常滑市久米

村の中央を、東の岩滑やなべ(現半田市)から西の大野おおの村に通ずる街道が走る。北は矢田やた村に接する。村内に小倉おぐら村の池がある。「寛文覚書」によれば、概高一千一四三石余、田五四町七反三畝余・畑一六町五反余、家数一三二、人数八三三。

代々鋳物師が住み、「尾張名所図会」に「天福元年十一月賜ふ所の宣旨を所持す。近衛院御宇、源三位頼政ぬえを射留めし時、彼鋳工に命じて金灯籠を造らしめ、御庭の木に懸けて、鵺の落つる所を見ることを得たれば、よつて褒美に預りしとぞ」とある。

久米村
くめむら

[現在地名]総社市久米

黒尾くろお村の東に位置し、北部は山地をなし、南部をすな川・久米田くめだ川が東流する。永仁六年(一二九八)書改を伝える服部郷図(県総合文化センター蔵)に、服部郷の北、刑部おしかべ郷の東に久米保が記される。延慶三年(一三一〇)八月日の神祇官下文(弘文荘待賈文書)で久米庄預所が補任されており、当時、神祇官領の久米庄が存在し、神祭米以下の公事を納めていた。

慶長六年(一六〇一)久米村七五七石余が木下家定に宛行われ(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)、寛永備中国絵図では高七五三石余、足守藩領。

久米村
くめむら

[現在地名]黒石市久米

黒石城下南方の浅瀬石あせいし川南岸にあり、追子野木おつこのき村と中川なかがわ村の間に位置し、弘前藩猿賀組に属した。貞享四年(一六八七)の中川村の検地帳に「中川村枝村久米村」とあり、付記に「享保十一年郷村御改之節此久米村ヲ本村ニ御立被成候」とある。貞享四年の久米村の耕地面積は田方二町一反一畝一九歩、畑方一町五反三畝八歩、村高三四・五九七石、戸数一三戸とある。戸数の割に耕地面積・石高が少ないのは、宝永元年(一七〇四)の検地帳によれば、中川村に田畑を有し出作しているからである。

久米村
くめむら

[現在地名]社町久米

加古川の支流千鳥ちどり(久米川)の流域に位置し、東は下久米村、西は藤田ふじた村。中世は久米庄のうちに含まれていた。正保郷帳では幕府領、田方三五三石余・畠方一三石余。元禄郷帳では高三四二石余。延享元年(一七四四)から同三年は大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報