デジタル大辞泉
「丹羽長秀」の意味・読み・例文・類語
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出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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丹羽長秀
にわながひで
(1535―1585)
安土(あづち)桃山時代の武将。織田氏の老臣。尾張(おわり)国児玉(こだま)(名古屋市西区)に生まれる。幼名万千代、通称五郎左衛門(ごろざえもん)。奉行人(ぶぎょうにん)。名古屋市北区楠(くすのき)町味鋺(あじま)の長秀宅跡は現在県史跡。1571年(元亀2)浅井長政(ながまさ)の旧属城近江(おうみ)佐和山(さわやま)(滋賀県彦根市内)を守る。76年(天正4)惟住(これずみ)の姓を与えられ一時これを称す。82年信長は、三男神戸信孝(かんべのぶたか)に長秀をつけて、四国遠征の軍をおこす。信孝らは大坂城に集結。本能寺の変後は、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉に協力し、惟任(これとう)(明智(あけち))光秀(みつひで)を撃破。信長の孫三法師(さんほうし)(のち秀信)を織田氏の後継者とすることに同意。柴田勝家(しばたかついえ)らとともに政務をとる。賤(しず)ヶ岳(たけ)の戦いでは秀吉に従い、勝家の挙兵を攻め自殺させる。越前北庄(えちぜんきたのしょう)(福井市)に鎮し、若狭(わかさ)と加賀半国の大名となる。室は織田信広の女(むすめ)。
[奥野高広]
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丹羽長秀 (にわながひで)
生没年:1535-85(天文4-天正13)
安土桃山時代の武将。織田信長に仕える。柴田勝家と並び称される勲功の臣で,浅井・朝倉との合戦に功績があり,近江佐和山を拝領して居城とした。長篠の戦には一翼の大将として軍功をあげ,翌1576年(天正4)惟住(これずみ)の称号を得た。本能寺の変後,羽柴(豊臣)秀吉とともに明智光秀を討ち,ついで柴田勝家,佐久間信盛と戦った。戦後,秀吉より越前・若狭両国と加賀半国を与えられ,越前北ノ庄の城に住した。
執筆者:西田 真樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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丹羽長秀 にわ-ながひで
1535-1585 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)4年生まれ。織田信長につかえ,近江(おうみ)(滋賀県)佐和山城主となる。信長の死後,羽柴(豊臣)秀吉とともに明智光秀をやぶり,清洲(きよす)会議では秀吉を支持。賤ケ岳(しずがたけ)の戦いでも秀吉にしたがい,越前(えちぜん),若狭(わかさ)と加賀半国を領有した。天正(てんしょう)13年4月16日死去。51歳。通称は五郎左衛門。
【格言など】御用にもたち候はで,口惜しく候へども,それも,はや,是非に及ばず候(遺書)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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丹羽長秀
にわながひで
[生]天文4(1535).尾張
[没]天正13(1585).4.16. 越前
安土桃山時代の武将。近江佐和山城主。長政の子。通称,五郎左衛門。羽柴越前守,一時,惟住氏を称した。織田信長に仕え,姉川の戦い,長篠の戦いなどに功があった。天正 10 (1582) 年四国征伐に出陣のおり,本能寺の変が起り,豊臣秀吉と合流して明智光秀を破った。以来秀吉に属し,賤ヶ岳,小牧・長久手の戦いに従軍し,柴田氏滅亡後,秀吉から越前国と加賀国の一部を与えられ,越前北庄城主となる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の丹羽長秀の言及
【溝口秀勝】より
…尾張溝口の生れ。幼年より丹羽長秀に仕えたが,1581年(天正9)織田信長よりじきじきに5000石を与えられ,若狭高浜の城主となった。83年羽柴秀吉が柴田勝家を攻め,北陸を平定するにあたっての功により,4万4000石をあてがわれて加賀大聖寺の城に移った。…
※「丹羽長秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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