山崎(読み)やまざき

精選版 日本国語大辞典 「山崎」の意味・読み・例文・類語

やまざき【山崎】

[一] 兵庫県宍栗(しそう)市の地名。揖保(いぼ)川の中流域にある。江戸時代は本多氏一万石の城下町。木材・薪炭の集散地。因幡(いなば)街道が通じる。現在では、木工・家具製造のほか、電機器具工業が盛ん。
[二] 京都府乙訓郡大山崎町の地名。天王山の東側のふもとにあたり、古来、京都と大阪を結ぶ交通の要地。西国街道が通じる。山崎の戦いの古戦場。宝積寺がある。

やまざき【山崎】

(「やまさき」とも) 姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「山崎」の意味・読み・例文・類語

やまざき【山崎】[姓氏]

《「やまさき」とも》姓氏の一。
[補説]「山崎」姓の人物
山崎闇斎やまざきあんさい
山崎宗鑑やまざきそうかん
山崎朝雲やまざきちょううん
山崎豊子やまざきとよこ
山崎直方やまざきなおまさ

やまざき【山崎】[地名]

京都府南部、乙訓おとくに大山崎町の地名。また、隣接する大阪府三島郡島本町を含めた地域。淀川の北岸に位置し、古来京都・大阪を結ぶ交通の要地。

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日本歴史地名大系 「山崎」の解説

山崎
やまさき

[現在地名]熊本市花畑はなばた町・さくら町・辛島からしま町・練兵れんぺい町・山崎町船場町下せんばまちした船場せんば町・とおり町・紺屋今こうやいま町・新市街しんしがい

熊本城の南側に広がる武家屋敷および町人町の一部を含む広域的地名。北は熊本城の下を流れる坪井つぼい川に接し、熊本城大手に通ずる下馬げば橋、加藤期・細川期を通じて藩主の住居であった花畑はなばた館、西はしん町方面への船場橋(現洗馬橋)を含んでいた。東は花畑の背後に築かれた土居と追廻おいまわし馬場で区画され、南は町人町の山崎・通・鍛冶屋かじや町に接し、城下の政治・軍事上の最重要地域である。

〔町形成以前〕

江戸時代末期に、現在の菅原神社の東に隣接した屋敷地から五、六世紀頃と推定される山崎古墳が発見された。古墳時代以降坪井川の流域一帯が開発され、茶臼ちやうす山の突端という意味で山崎の名が起こったと思われる。旧隈本くまもと城下地域を示す唯一の中世地図である茶臼山ト隈本之絵図(代継神社蔵)によれば、坪井川は山崎を横切って四木よつぎ社の南西側を流れ、マツハラとワタシの所で白川に注いでいる。ワタシ(渡し)は今日の長六ちようろく橋付近である。また茶臼山西南麓の放生池(旧藤崎宮の放生池)からの流水が現古川ふるかわ町・慶徳堀けいとくぼり町を通って山崎の南側で坪井川に合流している。四木社の周辺には「神田」が描かれ、四木社は代継よつぎ社のことで、現在は本荘ほんじよう三丁目にあるが、かつては現花畑公園の一角に鎮座し、慶長七年(一六〇二)加藤清正が山崎地域を武家屋敷にするに当たって移したと伝えられる。現花畑公園の大楠のもとに代継神社敷地跡の記念碑があり、この大楠は四ッ木の一本といわれる。四木社の勧請は一〇世紀中頃と伝え、絵図に記される天神は菅原山崎天神(現桜町の菅原神社)と思われるが、菅原山崎天神の勧請も一一世紀末(一説に一二世紀初め)といわれるので、一一、一二世紀頃には山崎地域の北部一帯は開発されていたのであろう。しかし、旧坪井川下流の氾濫地域の開発は戦国期に入ってからと思われる。現在の慶徳小学校は旧慶徳堀の跡地であるが、この堀は大永元年(一五二一)順正じゆんしよう寺を開いた僧慶徳に関係すると伝える。

〔町の形成〕

山崎地域が市街地とされた基礎は、天正一六年(一五八八)閏五月加藤清正が肥後半国領主として入国し、熊本城と城下町の形成に着手して以来で、入国直後から着手した形跡が強い。まず坪井川の流路を現流路へ変更する普請が進められたようで、天正一八年頃には下馬橋と思われる橋を架けるように命じている(「加藤清正書状」中沢広勝所蔵文書)

山崎
やまさき

[現在地名]島本町山崎やまざき一―三丁目・山崎・東大寺とうだいじ一丁目

現大阪府の北東端にある天王てんのう山の南麓に位置。南東を淀川が南西流する。北東は山城国大山崎おおやまざき(現京都府乙訓郡大山崎町)に接し、その間に河川など自然の境界はない。後述のように、近世の郷村帳類には単に山崎と出る場合と山崎村と記される場合が相半ばする。訓は古代の山城国乙訓おとくに郡山埼郷が「夜末佐岐」(「和名抄」東急本訓)なので清音であり、明治一八年(一八八五)の調査でも「ヤマサキ(内務省地理局編纂「地名索引」)。現在はにごる。なお乙訓郡の郷名が山埼と記されるように、古くは山埼と表記される場合が多い。そのほか山碕・山前などとも書かれる。

淀川に向かって南に突出する天王山南麓周辺、すなわち「山のさき」を意味する語が地名となったものといわれ、現京都府の大山崎および島本町山崎、さらには古代の水無瀬みなせ庄にあたる東大寺地域などを含んでよぶ場合もあった。すなわち天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用帳(東南院文書)に「島上郡山埼水成庄」とある。ところで、この辺りは山城国と摂津国の境界の地であり、かつてその境界をどこにおくかで諸説あった。山崎の西方を南東流し、淀川に注ぐ水無瀬川右岸とするのもその一つであるが(山城名勝志)、現在では当山崎にあるせき大明神社が古代の山城・摂津国境に設けられた関所跡とされ、国界もその辺りと考えられている。また両国の条里復原によって、摂津国山崎は島上しまかみ郡の一条一里に包摂され、山城大山崎は同国乙訓おとくに郡条里の南端部にあたることが確認されている。この国境はおおよそ近世・近代にも引継がれ、現在の大阪府・京都府の府界となっている。山崎・大山崎はこのように別々の行政区にまたがって存在したが、歴史的には一体のものであり、その歴史を別々に語ることはできない。以下、分別できるもののみ分けることとして、山崎の全体像として述べる。

〔古代〕

地名はすでに「日本書紀」白雉四年(六五三)是歳条に「山碕」とみえている。当時難波長柄豊碕なにわながらとよさき(現東区)にいた孝徳天皇は、皇太子らの飛鳥あすか移転に反対して皇位を捨てようとし、山碕宮をつくらせたという。ただし天皇は山崎に移ることなく翌年没した。天平一九年(七四七)頃、奈良大安だいあん寺領の一所として山前郷がみえるが(大安寺伽藍縁起并流記資財帳)、この所領は建物群で、直接土地経営とは結びつかない、交通の要衝という地を背景とした輸送基地であったといわれる。

山崎
やまざき

[現在地名]山越やまこし郡八雲町山崎

現八雲町の海岸部中央辺りにあったユウラップから北方の現黒岩くろいわの間にある地域。明治初年(同二年八月―同六年)当地一帯は胆振国山越郡山越内やまこしない村に編入された。「蝦夷巡覧筆記」に「ユウラツフ」に続けて「山サキ 此所砂道行キ黒岩ト申所有リ、夫ヨリ砂道行」とみえ、「毛夷東環記」に「夫よりフレムカラ、同四軒、人々此名山崎と云、山の出崎ある故也」(文化三年四月条)と記される。「東蝦夷地場所大概書」によると山越内やむくしない場所の内で、「ヤマサキ 此所蝦夷家有。大小川弐ケ所有共板橋、土橋懸渡して人馬共往来よし。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山崎」の意味・わかりやすい解説

山崎
やまさき

兵庫県中西部,宍粟市南部の旧町域。揖保川中流域にある。 1889年町制。 1955年城下村,戸原村,河東村,蔦沢村,神野村,土万村の6村と合体。 2005年一宮町,波賀町,千種町の3町と合体して宍粟市となった。中心集落の山崎は因幡街道 (現国道 29号線) 沿いにある谷口集落で,中世は赤松氏,江戸時代は本多氏1万石の陣屋町。 80%余が山地で,木材を産し木工品製造が行なわれる。鉄道に恵まれず交通不便であったが,1974年,中国縦貫自動車道が開通し,山崎インターチェンジが設置され,国道 29号線に連絡した。

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百科事典マイペディア 「山崎」の意味・わかりやすい解説

山崎【やまざき】

〈やまさき〉とも。京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地の旧称。古来山城と摂津の国界にあたる軍事,交通の要地であった。→山崎の戦山崎通
→関連項目島本[町]宗鑑

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改訂新版 世界大百科事典 「山崎」の意味・わかりやすい解説

山崎 (やまさき)

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事典・日本の観光資源 「山崎」の解説

山崎

(神奈川県鎌倉市)
かながわの探鳥地50選」指定の観光名所。

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デジタル大辞泉プラス 「山崎」の解説

山崎

兵庫県宍粟市にあった道の駅。国道29号に沿う。2013年3月、登録抹消。

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