丸田村(読み)まるだむら

日本歴史地名大系 「丸田村」の解説

丸田村
まるだむら

[現在地名]下津町丸田

かた村の東に位置し、東は塩津しおつ浦、北は海に面する。集落は村の南寄りをほぼ西に流れる加茂かも川に沿い、北方一帯は山地で、海岸部には北東端に小名戸坂とさかがある。永仁六年(一二九八)一一月一九日の浜中南庄惣田数注進状写(又続宝簡集)に「小四十歩 (北庄取)丸田堂免」とあり、浜中はまなか庄の北庄に含まれた地であったことが知られる。それより以前浜中庄のうちの北方一部は、この地の地頭職をもっていたと思われる湯浅宗業によって星尾ほしお(現有田市の神光寺)に寄進されたらしい。文永七年(一二七〇)二月九日の湯浅宗業田地寄進状(高山寺文書)に「寄進星尾寺 紀伊国浜仲庄北方内大□□□」とあり、不明字は大崎・丸田と考えられる。

丸田村
まるたむら

[現在地名]舞鶴市字丸田

由良川の左岸八田はつた村の下流に位置し、集落は谷間にある丸田西と由良川の自然堤防上にあった丸田東に分れる。丸田東は度重なる洪水を避けて大正の初め頃近くの山脚部に移転した。移転集落のうち一つは川べりにあった上平方うえへらかたで、他は少し内部に位置した門戸もんどである。上平方は農業のほかに対岸下東しもひがし村との間に渡舟業をも行っていた。

中世には丹後国田数帳に記す祇薗寺ぎおんじ庄域に含まれており、同書に、

<資料は省略されています>

とみえる。

丸田村
まるたむら

[現在地名]五泉市丸田

新津丘陵の東部を占め、東側を能代のうだい川が流れる。東は石倉いしくら村、南は橋田はしだ村に接する。中世は菅名すがな庄に属し、室町後期の蒲原郡段銭帳(米沢市立図書館蔵)に「菅名庄丸田条」とある。永禄年中(一五五八―七〇)に上杉氏の臣丸田左京がこの地を領したと伝える。慶長三年(一五九八)村上藩領、正保元年(一六四四)新発田藩領となり(中蒲原郡誌)正保国絵図に村名が載る。寛文二年(一六六二)の新発田藩の検地では、本田石盛平均二石六升六合・畑方石盛平均八斗三升であった(同書)。元禄郷帳には七六三石二斗余とあるが、延享四年(一七四七)以後幕府領、山城淀藩領に分割され、幕府領分は明和二年(一七六五)の石瀬代官所村々高辻帳(北条一也氏蔵)に高二一七石八斗余とある。

丸田村
まるだむら

[現在地名]吉舎町丸田

清綱きよつな村の南、馬洗ばせん川の東側に位置し、南東から流れ入る戸張とばり川が蛇行しつつ村の西北端で馬洗川に合流する。「芸藩通志」は「広十七町、袤六町余、山々立並び、只西の方豁く」と記す。村内に落合垣内おちあいかいちみなみ垣内大井迫おおいざこ舟迫ふなざこ下横路しもよころ・上横路の小字地名がある。元和五年(一六一九)の備後国知行帳に高二七五・五七八石を記す。「芸藩通志」では二七七石余(畝二九町余)で、戸口は五〇戸・二〇九人、牛三五・馬五。享保一三年(一七二八)には村高のうち七四石余が藩士山田頼母の給地となっていた(山田家文書)

丸田村
まるだむら

[現在地名]名立町丸田

南は折居おりい村・もり村と続く名立川左岸の村。近世の北陸道より約一里上流で、標高九〇メートルから一七〇メートルにかけての河岸段丘上に集落がある。村の上手に老杉の大木におおわれた式内社円田えんだ神社がある。祭神は道臣命・大己貴命・少彦名命の三柱で、大己貴命(大国主命)を祀るのは、名立谷は沼川ぬのかわ(奴奈川郷)の一部であったことと符合する。円田神社は天応元年(七八一)にはじまり、社殿は大同年中(八〇六―八一〇)に建築されたと伝え、現在古い様式の神殿を拝殿兼用の社殿に納めて保存している。

丸田村
まるだむら

[現在地名]梓川村大字梓 丸田

梓川左岸、上野の段丘下に立地する村落で、かみなか下丸田しもまるだからなる。初見は、寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳である。慶安四年検地帳によれば、田三町二段、畑一五町六段、村高一八六石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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