中野俣村(読み)なかのまたむら

日本歴史地名大系 「中野俣村」の解説

中野俣村
なかのまたむら

[現在地名]平田町中野俣

北俣きたまた村の南にあり、南は田沢たざわ村。中野俣川沿いに散在する山間の村。江戸後期の出羽荘内二郡絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)では、中野俣川右岸上流から谷地田やちた清水しみず田中たなか見渡みわたし備畑そなえばた、同左岸上流から円能寺えんのうじ・南中ノ股・進藤しんどう中里なかざと高花たかはな高畑たかはた笹山ささやまあまだいの一三の集落が散在している。天平てんぺい・円能寺・いえまえ押越おしこしみやひらの各遺跡には縄文時代の集落跡がある。「大泉庄三権現縁記」永正三年(一五〇六)の記事中、砂越さごし城主武藤万歳丸の所領の一つに「中野俣」の名がある。進藤の南東山頂に進藤館跡があり、最上氏領であった当時、当村は進藤但馬守の知行地であったと伝える(筆濃余理)

慶長一六年(一六一一)の年貢目録(中野俣区有文書)に年貢高一四一石余、うち一石肝煎免とある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に中俣村とあり高四三一石余。

中野俣村
なかのまたむら

[現在地名]大内町中俣なかまた

いも川の支流の小関こせき川の上流にあり、いかりとうげさわとびだい二ッ橋ふたつばしおにだいに小集落が散在する。北はかやさわ村・じんヶ村(現河辺郡雄和ゆうわ町)に、西は高尾たかお村に接する。近世には萱ヶ沢村に通ずる刈和野かりわの街道が幹線で、途中に百合長根ゆりながねの難所があった。峠ノ沢で楢岡ならおか街道が分岐し、「右ならおか道 左かりわの道」の庚申碑が立つ。いまは逸鳥えつとり峠を越えて神ヶ村に通ずる県道秋田―雄和―本荘線が主として利用される。

中野俣村
なかのまたむら

[現在地名]勝山市北谷きただに町中野俣

杉山すぎやま川の上流、西又沢にしまたざわの入口に位置し、北は木地山きじやま峠・小豆あずき峠を越えて加賀に至る。南は杉山村。慶長八年(一六〇三)の「山作之にき」(斎藤家文書)に、七山家ななやまがの一村として「六拾二石二斗八升 中の又村」とみえる。慶長五年から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領。元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。正保郷帳によれば田方三二石余・畠方三〇石余。

源平合戦や城跡などに関する伝承があるが(北谷村誌)、確認はされない。

中野俣村
なかのまたむら

[現在地名]大塔村なかまた

日置ひき川の支流将軍しようぐん川に沿う山間集落で、北は佐田さだ村、南は上露こうづい(現日置川町)、西は市鹿野いちかの(現日置川町)。「続風土記」に「村中別に谷あり、将軍川に落合ふ、因りて中の俣の名あり」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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