中原道(読み)なかはらみち

日本歴史地名大系 「中原道」の解説

中原道
なかはらみち

南方の東海道北方矢倉沢やぐらさわ往還に挟まれた街道で、江戸二本榎猿にほんえのきさる(現東京都港区)から、ほぼ南西方向に直進して丸子まりこ渡で多摩たま川を越え、小杉こすぎ(現川崎市中原区)佐江戸さえど(現横浜市緑区)瀬谷せや(現横浜市瀬谷区)用田ようだ(現藤沢市)を通り、田村たむら渡で相模川を越え、中原上なかはらかみ宿・中原下宿(現平塚市)へ至る。武蔵では相模へ通ずるために相州街道、逆に相模側では猿町街道とよぶこともあり、中原特産の酢を「御膳御酢」として江戸へ運ぶことから(天保一〇年「中原宿諸事明細覚書」平塚市史二)御酢おす街道、また江戸城への間道的な役割があったということで江戸街道ともよばれた。

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百科事典マイペディア 「中原道」の意味・わかりやすい解説

中原道【なかはらどう】

江戸から南西行して丸子(まりこ)渡しで多摩川を渡り,武蔵国の小杉・佐江戸,相模国の瀬谷(せや)・用田(ようだ)などを経て相模川を渡って中原(現神奈川県平塚市)に至り,さらに平塚で東海道に合流した道。近世初期に開設されたほぼ直線状の街道で,江戸街道ともいわれ,中原特産の酢が江戸に運ばれたことから御酢街道ともよばれた。徳川家康が江戸入部の際通行したといい,その後も鷹狩などに利用,小杉・中原には休泊用の施設である御殿も設けられた。東海道の整備とともに交通量は減少し,御殿も廃されたが,その後は物資運搬路として機能した。1671年に佐江戸と中山の間で荷物継立をめぐる争論が起こった。
→関連項目中原[区]

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改訂新版 世界大百科事典 「中原道」の意味・わかりやすい解説

中原道 (なかはらどう)

江戸から多摩川の丸子渡を渡り,小杉,佐江戸,瀬谷,用田,一之宮の継立場を経由して中原(現,神奈川県平塚市)に達し,平塚,大磯で東海道と合流する脇往還。ほぼ直線状の街道で,徳川家康らが鷹狩などに利用し,小杉,中原には休泊用の御殿と称される施設も設けられた。東海道の整備とともに交通量は減少し御殿も壊されるが,物資運搬路として機能し,1671年(寛文11)佐江戸村と中山村が物資運搬権の訴訟を展開している。
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