精選版 日本国語大辞典 「平塚」の意味・読み・例文・類語
ひら‐つか【平塚】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
神奈川県中南部,相模湾に臨む市。1932年市制。人口26万0780(2010)。相模川下流の馬入(ばにゆう)川西岸の沖積平野を占め,臨海部には湘南砂丘が発達する。中心の平塚は近世,東海道の平塚宿として栄えたが,1887年に東海道本線が通じ,平塚駅を中心に市街が形成された。馬入は渡頭集落であった。1905年日本火薬製造会社が立地してから工業都市として発展したが,19年同社は海軍火薬厰となり,第2次大戦後はその跡地に横浜ゴムなどの工場が進出,その後相模川沿いの低地にも工業団地も造成された。平塚駅は県央部に通じるバス路線の要地にあたり,近辺の住宅地化の進展とともに商圏も拡大している。51年に始められた七夕祭は関東の名物として多くの観光客を集める。真土(しんど)には前方後円墳の大塚山古墳がある。周辺部は早くからサツマイモ,キュウリの栽培地で広大な園芸試験場があったが,いまその跡地が野球場・サッカー場として整備された。なお市役所背後も文化公園として整備され博物館・美術館がある。
執筆者:伊倉 退蔵
宿駅の成立は1601年(慶長6)である。宿場の形成は,初め柳町,西仲町,東仲町の3町であったが,51年(慶安4)平塚新宿が加宿(かしゆく)とされて以後,本宿および新宿から住民が移り住み,十八軒町,二十四軒町の2町が新しくつくられ5町となる。しかし町としての機能が整うのは,元禄~享保期(1688-1736)ころと考えられる。問屋場が西仲町,二十四軒町に1ヵ所宛て置かれ,問屋3人,年寄6人,帳附11人,馬指6人,人足指6人が,毎月10日替りに勤めた。1825年(文政8)ころの家数は414軒,人口は2038。43年(天保14)ころの家数は443軒,このうち本陣1,脇本陣1,旅籠(はたご)屋54軒,人口は2114となった。73年(明治6)には人口1797であった。
執筆者:土井 浩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…現在も商業活動が盛ん。利根川沿岸の平塚は銅(あかがね)街道の終点で,鉄道が開通する前は足尾鉱山の銅を積み出す河港としてもにぎわった。野菜栽培を主とする農業と繊維,電機を中心にした工業が行われるが,工業が産業の中心である。…
※「平塚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新