中内村(読み)なかないむら

日本歴史地名大系 「中内村」の解説

中内村
なかないむら

[現在地名]東和町中内

南成島みなみなるしま村の南東毒沢どくさわ村の西に位置し、北上高地西辺の山地と丘陵に立地。天正九年(一五八一)一月の和賀氏分限録(小田島家記録写)の平士のうちに「二十石 中内三策」がみえる。正保国絵図に中内村一六一石余とある。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二五三石余、七ヵ年平均の免は四ツ四分一厘九毛。

中内村
なかうちむら

[現在地名]大豊町中内

南西流する南小川みなみこがわの北岸で、西峰にしみね村の西、川井かわい村の東に位置する山村。「土佐州郡志」は「東西十二町南北十二町」と記す。地名は天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「南地九名」の一として「中内」とみえるのが早い。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳には「中内名」とみえ、検地面積三町四反三六代二歩、うち田分九反二六代四歩、畠分八反二三代、屋敷一六で一町六反三六代四歩、堂床(観音堂)一。公事分と名本分からなる。一筆に「茶有」の記載がみえる。

延享二年(一七四五)の豊永郷差出控(大家家蔵)によれば総地高一一四石余、うち本田高三四石余、新田高七九石余。

中内村
なかうちむら

[現在地名]黒磯市中内

東は鹿野崎かのさき村、南は波立はつたち村、西は洞島とうじま村、北は上郷屋かみごうや村。飛地四ヵ所があった(地誌取調)くま川が北西から南東へ縦断する。天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「中ノ内」とみえ、高柳たかやなぎ(現那須郡西那須野町)笹沼ささぬまなどとともに三二石五斗八升とある(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。以後大田原藩領。奥州街道大田原宿の大助郷二八石を勤めた(「大田原宿宿方明細書上帳」大田原市教育委員会蔵)

中内村
なかうちむら

[現在地名]前橋市中内町

那波なは郡に属し、北と東は東善養寺ひがしぜんようじ村、南は横堀よこぼり村、西は西善養寺村。古くは東善養寺村のうちで、慶安年間(一六四八―五二)分村したという。宝永八年(一七一一)の分村とする説もある。しかしその後も元禄郷帳・天保郷帳には現れず、旧高旧領取調帳に前橋藩領分は三九七石余・大久保勘解由知行分二八七石六斗余とある。文政四年(一八二一)の前橋藩善養寺領の年貢減免越訴事件では、村内の二名が入牢を申付けられている(「勧農教訓録」林文書)

中内村
なかうちむら

[現在地名]藤代町中内

小貝こかい川西南岸に所在。対岸は浜田はまだ村。相馬二万石の一部で、「寛文朱印留」には下総佐倉藩領として村名がみえ、享保三年(一七一八)から土浦藩領となって幕末に至る(土浦市史)。寛政二年(一七九〇)の地頭性名村高控帳(国立史料館蔵飯田家文書)によれば土浦藩領五三二・三八二石のうちに明光みようこう寺除地〇・六石があった。

中内村
なかうちむら

[現在地名]谷田部町中内

大沼おおぬま村の南、小野おの川東岸に位置。元和二年(一六一六)谷田部藩細川氏領となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高一七五・〇七五石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android