下郷村(読み)しもごうむら

日本歴史地名大系 「下郷村」の解説

下郷村
しもごうむら

[現在地名]豊野村下郷

西から南にかけて白岩しらいわ(二二一メートル)などの微高性山地が連なり、内田うちだ村・竹崎たけざき(現松橋町)北小野きたおの村・中小野なかおの(現小川町)上郷かみごう村、北は山崎やまさき村に接し、東の糸石いといし村・中間なかま村との境を小熊野おぐまの川が北流し、河岸に沿った平坦地や段丘に田畑が開ける。村中央を娑婆神さばがみ峠を越えて小野へ出、八代方面へ至る古くからの幹線路が通っていた。下江しもごう村とも表記する。浄水じようすい寺跡近くでは古代肥後の窯跡のなかでも最大規模をもつ須恵器を主とした窯跡群が発見されて、また浄水寺は古い往還路にあり、古代益城国府や益城郡衙との関連も注目される。

中世には上郷村・中間村とともに八代庄小熊野郷を構成し、下郷の村名は近世に至るまでみえない。

下郷村
しもごうむら

[現在地名]松橋町西下郷にししもごう

豊福とよふく台地の最西端にあり、下江村とも書く。近世の干拓工事で現在の海岸平野が形成されるまでは八代海に臨んでいた。東は下中間しもなかま村、南は北新田きたしんでん(現小川町)に接する。南から西にかけて、近世の干拓により流路を変えたあさ川が流れる。

慶長国絵図には単独の記載はなく、豊福村に含まれていた。河江手永に属し、「国誌」は村名の由来について、加藤氏支配の慶長年間(一五九六―一六一五)に中山手永の下江(郷)(現豊野村)の農民を当地に移住させ、同時に村名も移したという考えを述べる。

下郷村
しものごうむら

[現在地名]米子市下郷

今在家いまざいけ村の東、佐陀さだ川東岸にあり、日野往来がほぼ南北に走る。天正一九年(一五九一)一二月二〇日の伊勢大神宮神田注文(蚊屋島神社文書)に「下郷分坪付別紙有云々」と記され、大神宮(現日吉津村蚊屋島神社)の神田があった。藩政期の拝領高は三七三石余。正保国絵図ではしもごう村とみえる。本免は四ツ六分。織田氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高五〇六石余、竈数四四。高の増加は治水による新田増によるものであろうか。

下郷村
しもごうむら

[現在地名]須崎市下郷

新荘しんじよう川の下流域に位置し、上流には上分かみぶん村、下流には下分しもぶん村がある。京都下鴨神社領津野つの新庄に含まれ、正安三年(一三〇一)同庄の下地中分が行われたとき、領家分である上分に含まれることになり、中世には上分郷に属した。現在も上分の賀茂神社を産土神としている。天正一五年(一五八七)の津野上分郷地検帳によると村域に家永いえなが名など二〇の名があり、地積二五町四反余、ヤシキ四四筆を割出すことができる。名のうち福岡ふくおか名・国正くるまさ名は小字として残る。検地当時の在地給人は野波源五良ら三人。

上分郷は江戸時代に下郷村・上分村・いけうち村となり、上分村の庄屋が下郷村庄屋を兼ねたようである(須崎市史)

下郷村
しもごうむら

[現在地名]上田市大字殿城とのしろ

殿城でんじよう山西麓の矢沢やざわ村の南、大屋おおや村方面へ通ずる道に沿っている村。集落の西方をかん川が北から南に流れている。東はもり村、西は神川を隔てて野竹のだけ村、南は漆戸うるしど村、北は矢沢村と境をなす。

古代は山家やまが郷の本郷に対する下郷であったと推定されるが確証はない。初め矢沢村に含まれていたが、元和八年(一六二二)以降寛永年間(一六二四―四四)の頃分村したという(小県郡史)

寛文九年(一六六九)の仙石政勝宛二千石分知目録(改撰仙石家譜)には「四百七十貫、一、千百六十石九斗、矢沢村・下ノ郷・赤坂・岩清水」と一括して村高を書き上げているが、元禄一五年(一七〇二)の信濃国郷帳には、「高三百三拾九石五斗八升三合、下郷村」と記されている。

下郷村
しもごうむら

[現在地名]西脇市岡崎町おかざきちよう

上新田かみしんでん村の南、野間のま川南岸の角尾つのお山西麓に位置する。加西郡に属する。下江村とも記す。延徳二年(一四九〇)多可たか郡下郷は吉田よしだ神社(現京都市左京区)の祀官吉田家領であったが(「蔭涼軒日録」同年一〇月二六日条)、この下郷は当地および周辺のことと思われる。慶長国絵図には下郷村の位置に「尾佐市ノ内」と記載される。正保二年(一六四五)赤穂藩領(寛政重修諸家譜・寛文朱印留)、元禄一四年(一七〇一)幕府領と変遷後、大部分は同一六年旗本八木領となる(寛政重修諸家譜、天保二年「村明細帳」岡崎町有文書)。一部は延享三年(一七四六)三卿の一橋領となる(「徳川実紀」、「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書)

下郷村
しもごうむら

[現在地名]八幡浜市ごう

千丈せんじよう川中流域の山村。東は上郷かみごう村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「下郷村 茅山有、小川有」と記されている。郷村が江戸時代初期に上下二村に分れたと考えられる。庄屋兵頭氏は上郷村庄屋を兼ねた。宇和島藩領。

太閤検地の石高は三三八石七斗で、耕地面積の比率は田四一パーセント、畑五九パーセントであったが、寛文検地では石高が一五パーセント減少し、田二〇パーセント、畑八〇パーセントの比率に変化している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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