下横田村(読み)しもよこたむら

日本歴史地名大系 「下横田村」の解説

下横田村
しもよこたむら

[現在地名]横田町下横田

八川やかわ村の北、室原むろはら川の河岸段丘上に続く河川敷上に位置し、北は横田村。室原川は当村で斐伊川に合流する。永正一三年(一五一六)二月一五日の三沢為忠・同為国寄進状(晋叟寺文書)に「下横田」とみえ、同地道場分として田五段小および寺屋敷・山畠が晋叟しんそう寺に寄進されている。同寺は守護不入の寺で、尼子晴久横田庄を支配下においた弘治二年(一五五六)一〇月二二日、下横田のうち道場分ほかが寺領として安堵されている(「尼子晴久安堵状」同文書)。天正一九年(一五九一)三月毛利輝元が出雲国を領有すると、祖式源吉(宗安)が五八九石余を宛行われて来住した(毛利氏八箇国時代分限帳)

下横田村
しもよこたむら

[現在地名]小川町下横田

中爪なかつめ村の北西に位置し、北西は上横田村。村の東辺を市野いちの川が流れる。松山まつやま領に属した(風土記稿)。古くは上横田村と一村であったという。長享二年(一四八八)高見原たかみはら合戦で、「御方御所様」(足利高基か)が「横田」に張陣している(同年一一月二三日「上杉顕定書状」和田中条文書)。元和二年(一六一六)三月、久松惣太郎(定佳)は徳川氏から「下横田郷之内」で三〇〇石を宛行われている(記録御用所本古文書)。以降、旗本久松領のままで幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)

下横田村
しもよこたむら

[現在地名]宇都宮市下横田町

北は中島なかじま村、東は東谷とうや村、北は高く南に低い平坦地で、南北に長く、西端を川が流れる。古くは横田郷の内という。近世初頭より宇都宮藩領、天明二年(一七八二)から同八年の間幕府預地となり、その後再び宇都宮藩領、慶応二年(一八六六)高徳藩領。慶安郷帳に田方三九五石余・畑方九二石余とある。正徳年間(一七一一―一六)の宇都宮領村々諸割物高付覚帳(五月女久五文書)では藁縄干葉納高二五八石余、堰川除人足勤高四七三石余、人足勤高三二一石余、山家萱付馬等勤高二六〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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