遠野城下(読み)とおのじようか

日本歴史地名大系 「遠野城下」の解説

遠野城下
とおのじようか

[現在地名]遠野市中央通りちゆうおうどおり穀町こくちよう新町しんまち六日町むいかまち大工町だいくちよう上組町かみくみちよう下組町しもくみちよう東館町ひがしだてちよう・遠野町など

さるいし川中流、早瀬はやせ川と来内らいない川の合流地点に発達した沖積平野に位置し、鍋倉なべくら城の北側を中心に東西に広がる町。町人町は横田よこた五町とよばれた。寛永四年(一六二七)盛岡藩主南部利直により八戸弥六郎直義が遠野に移され、鍋倉城を居城とした。以後直義の系譜は遠野南部氏と称され、遠野盆地を中心に約一万二千五〇〇石を知行した(寛永四年「南部利直知行宛行状」三翁昔語)

寛永年間に阿曾沼氏時代から鍋倉城の北西にあった六日町を北に移して町屋敷とし,跡地を諸士小路とした。以後旧六日町は元六日もとむいか町あるいは元町とよばれる。さくら馬場や馬場ばば丁を設け、南部氏の一族新田氏の家中屋敷として西にし(新田丁)を割出した(以上現六日町)。延宝年間(一六七三―八一)初頭には元町・西丁・馬場丁、城東方の石倉いしくら(現東館町)、城西の砂場すなば(現新町)、城の北東の坂下さかのした(現東館町)、城下北東部に新屋敷しんやしき(現穀町)の七町の侍町が整っていた(延宝九年「巡見使御答書上帳」遠野市立図書館蔵)。貞享年中(一六八四―八八)には下小路しもこうじ(現東館町・中央通り)、元禄年間(一六八八―一七〇四)ひがし(現東館町・遠野町)倉堀くらぼり(現下組町・遠野町)かきした(新小路、現穀町)佐郷谷さごうや(新屋敷、現穀町)などを割出した。さらに明暦―万治(一六五五―六一)の頃下同心しもどうしん(現下組町)、寛文四年(一六六四)に上同心丁(現上組町)、天和―貞享(一六八一―八八)御持筒同心おもちづつどうしん(中組丁、現大工町)、職人町の大工丁を割出した(遠野市史)

町方は遠野南部氏移転の以前より六日町のほか一日市ひといち町があり、天和年間には町家人口も五、六百人は数えられていたと考えられる(「八戸家伝記」盛岡市中央図書館蔵)。前掲御答書上帳には一日市町北裏のうら(通称新町)がみえ、天和―貞享頃一日市町に引続き東端から北方に折れて穀町(新町)がつくられた。さらに城の大手前から南北道がつくられ、一日市町にできた遠野街道と交差する十字路は十文字じゆうもんじとよばれた。その延長で裏町へ出る一日市町の裏角に高札場が置かれたので、この通りを札場ふだば丁と称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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