下大隈村(読み)しもおおくまむら

日本歴史地名大系 「下大隈村」の解説

下大隈村
しもおおくまむら

[現在地名]中間市下大隈土手どてうち一―三丁目

遠賀おんが川の中流域に位置し、近世には鞍手くらて郡に属した。北は遠賀郡垣生はぶ村、北東は同郡中間村、南東は同郡楠橋くすばし(現北九州市八幡西区)、南は小牧おまき(現鞍手町)中世には遠賀郡楠橋庄のうちで大隈村と称した。近世に入り、慶長石高帳では大隈村とみえるが、慶長国絵図では「小隈村」とあり、正保郷帳でも同様。元禄国絵図に下大隈村とみえ、その後の郷帳類では下大隈村とある。中世に遠賀郡内であった当地がのちに鞍手郡の所属となり、同じ鞍手郡内にもう一つの大隈村(のちの上大隈村、現宮田町)があったことから、同村と区別するため当初は小隈村、のち下大隈村とよばれるようになったとも考えられる。なお「中間市史」は小隈村から下大隈村への改称時期を寛永(一六二四―四四)頃と推定している。正応六年(一二九三)正月二二日の伏見天皇綸旨(醍醐寺文書/鎌倉遺文二三)に「筑前国楠橋庄内大隈村」とあり、山城醍醐寺俊誉は建長二年(一二五〇)の父三条公俊の譲状の旨に任せて当地の知行を安堵されている。正安三年(一三〇一)一一月一二日、俊誉は譲状をしたため「楠橋庄内一分方并大隈村領家職」を同じ醍醐寺の定任に、「大隈村預所職」を俊暁に、「大隈村年貢内正米京定三石」を宝光丸にそれぞれ譲与している(「権大僧都俊誉所職等譲状」同文書/鎌倉遺文二七)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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