上野郷(読み)うえのごう

日本歴史地名大系 「上野郷」の解説

上野郷
うえのごう

富士上方ふじかみかたのうち、潤井うるい川上流域の現上条かみじよう下条馬見塚うまみづか精進川しようじんがわを含む一帯に比定される中世の郷名。建治元年(一二七五)と推定される五月三日の日蓮書状写(日蓮聖人遺文)に「ふしのうへの」とみえ、日蓮は甲斐身延みのぶ(久遠寺)に食料(干芋など)を送進してくれた富士郡上野居住の上野殿(南条時光)礼状を送っている。弘安二年(一二七九)と推定される一月三日の日蓮書状(同遺文)でも、上野殿が「富士郡上野郷」より餅九〇枚・薯蕷五本を身延山に送っている。当時疫病飢饉が続き、とくに弘安元年七月以降は大飢饉で、里市の無数の者と身延山中の僧らは存命も難しい有様であったという。徳治二年(一三〇七)二月一七日の得宗家奉行人奉書(大石寺文書)によれば、北条得宗家が富士上方上野郷について、一分給主新田五郎後家尼蓮阿との相論について南条時光に弁明を求めており、当郷は上野殿と称された地頭南条氏によって支配されていたと思われる。南条氏は伊豆国南条なんじよう(現韮山町)を本貫地とする御家人で、早くから北条得宗家の被官化していたと思われる。姻戚重須おもす郷の石川氏とともに早くから日蓮に帰依し、その弟子日興の当地域での活動を支え、上野郷内に大石たいせき寺・妙蓮みようれん寺を建立している。永仁六年(一二九八)に日興がまとめた日興本尊分与帳(北山本門寺文書)には、日興の弟子として上野郷住人の小四郎次郎ほか五人が列記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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