上牧村(読み)かんまきむら

日本歴史地名大系 「上牧村」の解説

上牧村
かんまきむら

[現在地名]高槻市上牧町一―五丁目・東上牧ひがしかんまき一―三丁目・上牧・梶原かじはら二―四丁目・同六丁目・五領ごりよう町・神内こうない一―二丁目・上牧〈山手やまて町・北駅前きたえきまえ町・南駅前みなみえきまえ町〉・淀の原よどのはら町・萩之庄はぎのしよう五丁目・前島まえしま一丁目・同三丁目・井尻いじり一―二丁目・梶原中村かじはらなかむら町・道鵜どうう町一丁目・同三丁目

成合なりあい村の南東にある。水無瀬みなせ川とあくた川に挟まれた淀川右岸に位置し、中央をほぼ南北に西国街道が通る。当地は古代には南西に隣接する井尻村とともに、昌泰元年(八九八)一一月一一日の太政官符(類聚三代格)に「摂津国島上・島下・西成等郡河畔之地」「公私牧野多」といわれるような、いわゆる近都牧の一部をなしており、左馬寮に属していたと考えられる。三島には上・中・下のさんまきがあったといわれ(→唐崎村、当地は上ノ牧にあたると伝える(大阪府全志)。永禄一二年(一五六九)正月二一日付織田信長朱印状(烏丸家文書)に「烏丸殿知行摂州上牧之内」とみえ、「蘆島分・林分・善福寺分・宝持寺分、其外寺庵、被官人」と記され、「当地名主百姓中」にその支配を認める旨沙汰している。烏丸家は藤原北家日野家の分流で、当時の当主は光康。同年四月一九日信長は近年不知行となっていた当牧内について、「今度依御忠儀」光康に領知を認めている(「織田信長朱印状」同文書)

上牧村
かんまきむら

[現在地名]上牧町大字上牧

馬見うまみ丘陵中、下牧しもまき村の南に所在。南上牧・北上牧・五軒屋ごけんや三軒屋さんげんや新村しんむらの五集落よりなる。西南部には後期古墳数基が認められる。小字上牧・駒坂こまがさかなどがあり、古代には牧があったと考えられ、大正末期に小字キタノ山からおびただしい獣骨が出土している。

近世初期は幕府領(代官大久保長安)慶長郷帳の村高六三八・五八石。元和五年(一六一九)以降郡山藩(松平忠明)領。のち同藩の二割半無地高増政策で村高八〇一・八六三石となる。

上牧村
かみもくむら

[現在地名]月夜野町上牧

下牧村の北、利根川左岸に位置。四ヵ村用水が流れる。もとは下牧村および東方大沼おおぬま村と一村であったと伝える。寛文郷帳によると田方五七石余・畑方一五二石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高九四六石余。大沼村への途中にある字吉平よしだいらは、天和元年(一六八一)の郷村品々記録(小林文書)に「上牧村之内吉平村」(高二五〇石)とみえる。宝永元年(一七〇四)の沼田領村々石高書上では高三四五石余、反別は田一六町四反余・畑四八町三反余。真田氏藩政下では「御前御炭郷」とよばれ、真田信利の代には稼山(奈女沢入)の独占的利用権が与えられ、炭運上二貫目俵一千俵を年々上納するかわりに諸役が免除されていた。

上牧村
かみまきむら

[現在地名]多気町まき

中牧なかまき村の西にあり、北に櫛田くしだ川が流れ、村の中央を初瀬はせ(伊勢)本街道が走る。「和名抄飯高いいたか郡の郷名として「上牧」(高山寺本)、「上枚」(東急本)があり、「神鳳鈔飯高郡に「下牧」と記される。「五鈴遺響」に「上牧属邑中牧下牧アリ牧三郷ト称ス」とあり、「三国地志」は「按神鳳抄牧御園云是カ」と記している。垣内がいと(街道)地名が多く川原かわら街道・なか街道・まえ街道・ノ街道・榎木えのき街道などがある。

上牧村
かみまきむら

[現在地名]伊那市大字伊那部いなべ 上牧

天竜川の東、野底のそこ村の南に位置し、集落は段丘崖下に発達、段丘上は六道原ろくどうはらに続いている。

天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は中、村高は「弐百三拾九石六斗四升弐合 上牧」とあり、「う乃木」「中越」の二村の次に村位は中、村高は「百八拾七石三斗四升八合四勺 下牧」とある。また元文六年(一七四一)成立の「信州伊奈郡郷村鑑」には「大橋ノ北ノ村 牧 中 古高四百廿七石余、今二ケ村ニ分ル、上牧 高二百卅九石六斗四升二合、下牧 高百八十七石三斗四升八合四勺 一括リ」とある。上牧は天竜川東岸の村、下牧しもまきは約三里(一二キロ)も下流の西岸の村で二村の沿革についてはつまびらかでない。

上牧村
かみまきむら

[現在地名]小松市上牧町・天神町てんじんまち

かけはし川下流右岸にあり、低湿地のため度々水害にあった。南西は下牧村、西は小島こじま村。「かんまき」とも発音する。正保郷帳では高四〇一石余、田方二〇町余・畑方三五町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四二四石余、免五ツ二歩、小物成は板船櫂役二〇匁(うち一〇匁出来)、地子銀一四匁(退転)、葭役五六六匁(三箇国高物成帳)

上牧村
かんまきむら

[現在地名]祖父江町上牧

東は桜方さくらがた村、北は下祖父江しもそぶえ村に接する。「寛文覚書」によれば、概高二一七石九斗余で、田六町四反余・畑一〇町九反九畝余、家数三四、人数一八二。とどめき川(佐屋川)の流木には一定の賃銭を受取り、洪水に備えて堤を囲う杭木・明俵を、公儀より預かっているという。天保村絵図の新田は四石六斗余で、戸口は五八軒・三二一人、ほとんどが藩士二人の給知で、蔵入地は一石余となっている。

上牧村
かみまきむら

[現在地名]八尾町上牧

花房はなぶさ村の北東方、大長谷おおながたに川右岸の山腹にある。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では上中山かみなかやま村の一〇町ほど南にある枝村新田としてみえ、高三四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報