上本郷村(読み)かみほんごうむら

日本歴史地名大系 「上本郷村」の解説

上本郷村
かみほんごうむら

[現在地名]益田市染羽町そめばちよう東町ひがしまち三宅町みやけちよう昭和町しようわちよう有明町ありあけちよう乙吉町おとよしちよう本町ほんまち七尾町ななおちよう土井町どいちよう

益田平野の東部一帯に位置し、南の益田村を囲むように存在し、西は上吉田かみよしだ村、北は下本郷村。地名は益田本郷に由来する。江戸時代の支配の変遷は益田村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では上本郷とあり、高八六六石余、年貢は田方四四四石余・畑方一四六石。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では高八六六石余、開方四石余があり、免六ツ六分。安永六年(一七七七)の村明細帳(右田家文書)によると家数一七四・人口八二一とある。片山門前かたやまもんぜんは畳表の運搬に便利であるため、主産地の遠田とおだ村をはじめ、久城くしろ村・下本郷村・吉田村・中須なかず村などの生産地から集まった。

上本郷村
かみほんごうむら

[現在地名]松戸市上本郷・仲井町なかいちよう一―三丁目・北松戸きたまつど一―三丁目・みどりおか

たけはな村の北、下総台地西端部から江戸川左岸低地にかけて開け、集落はおもに台地上にある。慶長一三年(一六〇八)の年貢割付状(中山家文書)には本郷村とあり、古くは単に本郷村と称していた。中世には風早かざはや庄のうちであったと思われ、地内字惣台そうだい(惣代)には同庄の惣社であったという風早神社(風早大明神)が鎮座する。「本土寺過去帳」にはホンカウ・本郷の表記で地名が散見する。年紀の判明するもので早期のものは二七日の「本郷の大夫大郎」で、文明一八年(一四八六)七月とあり、ほか長享二年(一四八八)六月の年紀がある覚蔵坊(六日)には「本郷妙見堂」などとみえる。

上本郷村
かみほんごうむら

[現在地名]三日月町上本郷

下本郷村の北、本郷川の源流域に位置する山村。鎌倉かまくら天満てんま添谷そえだに大内谷おおちだにの四集落がある。東は山を隔てて宍粟郡青木あおき(現山崎町)奥小屋おくごや(現新宮町)。江戸期の領主の変遷は細月みかづき村に同じ。正保郷帳にみえる東本郷ひがしほんごう村が上・下に分立して成立。元禄郷帳に古くは東本郷村の頭注付きで村名がみえ、高三一一石。年貢米などは揖保いぼ川筋の今宿いまじゆく出石いだいし河岸(現山崎町)へ運び網干あぼし(現姫路市)へ津出ししていた(延宝七年「津出し道法等書上」間嶋家文書)。畑地が多く、近世を通じ大豆・葉煙草の生産が多い。

上本郷村
かみほんごうむら

[現在地名]豊田町上本郷

西に赤池あかいけ村があり、東端をぼうそう川、西部を高木たかぎ用水が南流。正保年間(一六四四―四八)以前に上・下に分れたという(遠江国風土記伝)。正保郷帳に上本江村とみえ、幕府領、田方六八石余・畑方三七石余、飛神領五石・天王領一石・自清庵領一石。国立史料館本元禄郷帳・享保郷村高帳ともに旗本北条領で、旧高旧領取調帳では幕府領。「遠淡海地志」によれば家数一九。東海道見付みつけ宿(現磐田市)の助郷役は中野戸なかのと村に同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報