三谷郷
みたにごう
高野山領六箇七郷の一で、現三谷付近をほぼその領域とし、中心部に丹生酒殿神社が鎮座。建仁三年(一二〇三)八月日付の某下文(丹生家文書)に「可早以三谷郷荒野内令開募放生会田事」とあり、徳治二年(一三〇七)八月日付の阿河庄地頭披陳状(又続宝簡集)に付された頼聖具書案に三谷村がみえるが、三谷村は当郷の中核的な村で、同具書案によれば本家職は丹生都比売神社で、下司・公文両職は重代御家人たる三谷太郎が有していた。正平一九年(一三六四)正月一七日の快実田地売券(続宝簡集)には「三谷郷内兄井村」とみえ、当時、兄井村も当郷に属したことがわかる。しかし室町時代初期頃の高野政所下方田畠在家帳目録(又続宝簡集)によると、この時期までに兄井村は高野山領官省符庄下方に編成替えされており、これ以後三谷郷は三谷村一村をその内実とする郷となったと考えられる。
三谷郷
みたにごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに「三谷」と記し訓を欠くが、郡名の訓に従いミタニと訓ずる。「日本地理志料」は、三谿郡家所在地とし、安田(現双三郡吉舎町)、棗原・大谷・灰塚・三良坂(現双三郡三良坂町)の五村の地とし、「大日本地名辞書」は「今和田村なるべし、即中世和知郷と呼びし地也」とする。
三谷郷
みたにごう
「和名抄」高山寺本は「美多迩」、東急本は「美多尓」と訓を付す。駅馬四を置いた南海道三谿駅があった(「延喜式」兵部省)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報