三石村(読み)みついしむら

日本歴史地名大系 「三石村」の解説

三石村
みついしむら

[現在地名]備前市三石

山陽道沿いに八木山やきやま村の北東に位置する宿駅の村。東端の船坂ふなさか峠越で播磨国有年うね宿(現兵庫県赤穂市)に続く。古代山陽道は船坂峠を越えて当地坂長さかなが駅を通り、北西方に向かったが、中世には船坂峠・三石宿を経て南西方片上かたかみ宿に向かってほぼ直進した。村名の由来は、福石・基石・守石という石があったことによるという(「中国行程記」山口県萩市郷土博物館蔵)

「平家物語」巻八(妹尾最期)に「備前国みつ石の宿にとゞまたりければ」とあり、平安末期すでに山陽道の主要な宿駅の一つであった。鎌倉末期以後宿を見下ろす三石山に城郭が築かれ、当地の重要性が増した。地頭伊東大和が三石城に籠って近隣武将の参集を命じたときには、安養あんよう(現和気郡和気町)の衆徒も軍勢催促に応じた(元弘三年七月一〇日「安養寺衆徒申状写」安養寺文書)。建武三年(一三三六)二月、京都で敗北した足利尊氏が九州へ逃亡する際、「京都ヨリ討手馳下ラバ、三石辺ニテ支ヨ」と石橋和茂に命じている(「太平記」巻一六)。同年三月から五月にかけて、足利軍と後醍醐軍との間でしばしば三石宿をめぐる攻防戦が展開した。五月二一日、足利直義は当地光明こうみよう寺衆徒らの働きを賞して、三石保内の田畠一〇町を寄進した(「足利直茂寄進状」永明院文書)。文和二年(一三五三)三月二三日、赤松則祐は三石庄光明寺に禁制(前田家所蔵文書)を下し、庄内における殺生禁断を命じ、違犯者の領内追放を定めた。応永七年(一四〇〇)一二月二日には備後守護赤松義則が寺領を安堵した(「赤松義則安堵状」永明院文書)。なお康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」によれば、三石から吉備津彦神社に年々鏑矢を納めている。

三石村
みついしむら

[現在地名]鳴門市鳴門町三ッ石

大毛おおげ島の南西部にある。東は土佐泊とさどまり浦と芙蓉ふようの峰により境界をなし、西は高島たかしま村と狭い水路で接する。南は小鳴門海峡を隔てて大桑島おおくわじま村と向き合い、北は寿久の海すくのうみという狭い入海に接している。南東部の土佐泊浦境から当村西方の間の水尾あいのみお渡に至る道と北東部村境から南の三ッ石渡(桑島渡)に至る道が通り、小鳴門海峡の三ッ石渡は対岸大桑島村との間を舟で結ぶ重要路であった。もと土佐泊浦の内であったが、慶長年中(一五九六―一六一五)淡路国三原みはら高屋たかや村・北方きたがた(現兵庫県西淡町)などから佐古右衛門とともに来住した人々が塩浜を築き、村が成立した。その功績により佐古右衛門は庄屋に任ぜられたと伝える。また村名は北西海浜に三つの大石が切立っていたことから付いたが、これら大石は塩田の妨げとなるので漸次破壊されたという(「鳴門辺集」など)。一方、文政一一年(一八二八)の三石村庄屋寺田平左衛門家由来書(寺田家文書)によると、先祖弥市郎(のち左近右衛門)が摂津国から下人を多数連れて来て当地の干潟を塩田に築立て、益田内膳から塩浜割符銀・政所給を与えられ、以後代々庄屋役を勤めたとあり、慶長一二年の塩浜銀子割符(同文書)に「三ツ石分」とある。

三石村
みついしむら

明治三九年(一九〇六)から昭和二六年(一九五一)までの村。明治三九年四月、三石郡各村戸長役場管下の同郡姨布おばふ村・辺訪べほう村・幌毛ほろけ村・鳧舞けりまい村・本桐ほんきり村・歌笛うたふえ村の六ヵ村が合併、二級町村制を施行して成立。旧村名を継承した六大字を編成。同四一年三石漁業組合が設立された。同年歌笛郵便局、同四三年鳧舞郵便局が開局。大正二年(一九一三)には歌笛灌漑溝が完成している。同五年公設三石消防組が設立され、同八年には浦河区裁判所姨布出張所が同三石出張所と改称した。

三石村
みついしむら

[現在地名]上磯郡上磯町三ッ石みついし一―二丁目・字三ッ石

近世から明治一四年(一八八一)まで存続した村。三ッ石とも書く(「蝦夷巡覧筆記」など)大当別だいとうべつ川下流右岸の丘陵地帯に位置し、南は津軽海峡に面する。地名の由来は「海磯にテ三大石あり故の名なるへし」(検考録)という。近世は東在箱館付村々のうち。元禄郷帳に「みつ石村」、天保郷帳には「従松前東在」として三石村とある。シャクシャインの戦に関連して「三ツ石」家三軒ほどとみえる(狄蜂起集書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報