三次町(読み)みよしまち

日本歴史地名大系 「三次町」の解説

三次町
みよしまち

[現在地名]三次市三次町・十日市とおかいち

近世五日市いつかいち町・うち町・十日市町の三つの町人街を総称して三次町または三次三ヵ町といった。比高一七〇メートルの比熊ひぐま山の南麓に、東・西・南の三方を川に囲まれ舌状に張出す現三次町の沖積平地と、馬洗ばせん川を隔てた南の現十日市町の沖積平地に立地。この地は中世三吉みよし(郷)あるいは三吉原みよしはら村、あるいは単に原村とよばれており、文明三年(一四七一)閏八月一九日付の足利義政御内書(毛利家文書)に「備後国三吉口陣事、引退云々」とある。また大永七年(一五二七)一一月二八日付の陶晴賢宛の仁保興奉合戦注文(三浦家文書)にも「昨廿七、備州三吉郡三吉郷発向合戦之時」とみえる。

中世末期、三吉(原)村が二村に分れ、南の現十日市町の地は原村に、北の現三次町の地は上里あがり村となり、さらに天正年間(一五七三―九二)領主三吉氏が本拠畠敷の比叡尾山はたじきのひえびやま城から上里寺戸てらどへ移した時期と前後して、上里村の中に五日市町が、原村の中に十日市町が成立し、両町よりややおくれて一七世紀前半に上里村の中に内町が成立した。

寛永九年(一六三二)三次藩の成立に伴い、三次町はその城下町となった。享保年間(一七一六―三六)の三次町古図(三上家文書)によると、現三次町の中心に藩主の居館があり、それを囲むように武家屋敷がある。五日市町は武家屋敷の東側に、幾つかの丁字形曲折をもちながら西城さいじよう川に沿ってほぼ南北に続く町並で、北は太歳ださい神社から南は馬洗川の岩神いわがみ渡までおよそ八丁。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報