七類浦(読み)しちるいうら

日本歴史地名大系 「七類浦」の解説

七類浦
しちるいうら

[現在地名]美保関町七類

日本海に面し、東は筑堀つくぼり(鶴鉾山)中船なかふね山を境にして諸喰もろくい浦、西は八景やけヶ峰を境にして片江かたえ浦、南は高通たかとおり(大谷山)を境にして森山もりやま村に接する。南方宇井地ういじから宇井地川、南西小谷こだにから小谷川が北流する。片江浦から諸喰浦へ通称刎土はねど道が通る。その途中宇井地で南へ分れ森山村へ至る道がある。当浦は指を広げたように複雑に日本海に突き出ており、東側に七類湾、西側に玉結たまえ湾があり、多くの入江をもつ。北西端を若松わかまつ崎、東端かめヶ崎という。片江浦に面した入江を惣津そうづという。「出雲国風土記鈔」に「僧都」がみえ、ほかに想津・双津とも表記された。「出雲国風土記」島根郡所載の質留比しちるい浦は当地に比定され、「広さ二二〇歩有り、南に神社あり、北は百姓の家有り、三〇の船泊つべし」とある。古代からの良港であったと考えられる。南北朝初期と推定される二月三日の沙弥覚照書状(千家家文書)にも志津留伊とみえ、羽田井高泰は同地などを除く美保郷を知行している。永禄一二年(一五六九)九月二八日、片口(片江)・七類七〇貫などが宇山久信に与えられている(「天野高重書状」閥閲録)

正保国絵図に七類浦とみえる。慶安三年(一六五〇)の七類村御検地帳によると田方五町八反余・分米七五石四斗余、畑方五町四反余・分米二一石余、山畑二町余・代銀六三匁余。屋敷数一五で、うち御蔵屋敷・庄屋役人・寺各一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報