ボリショイバレエ団(読み)ボリショイバレエだん(英語表記)Bol'shoi Ballet

改訂新版 世界大百科事典 「ボリショイバレエ団」の意味・わかりやすい解説

ボリショイ・バレエ団 (ボリショイバレエだん)
Bol'shoi Ballet

ロシアのバレエ団。モスクワボリショイ劇場所属。1776年につくられたオペラ,バレエ,ドラマを演ずる小さな一座起源とするが,当初は専属の劇場をもっていたわけではない。やがて帝室劇場の管轄に入り,1825年にボリショイ劇場が開設されることによって急速な発展をとげた。19世紀初頭にはロシア人による民族舞踊をとりいれたバレエが上演されるようになり,また,パリの初演からわずか2年後の43年に《ジゼル》が上演され,西欧の高名な踊り手が来演するなど,ボリショイ・バレエ団は諸外国のそれに遜色のないものとなった。劇場はペテルブルグ(現,サンクト・ペテルブルグ)のマリインスキー劇場と並んでロシア音楽文化発展の推進力となったが,ことバレエに関しては,宮廷貴族の厚い庇護下にあったペテルブルグに数歩を譲らねばならなかった。ボリショイ・バレエ団がゴルスキーAleksandr Alekseevich Gorskii(1871-1924)を指導者に迎え改革に踏みだしたのは1902年で,彼はペチパのもとで学んだ経験を生かしてモスクワの演目を豊かにし,また芸術座の演劇改革の理念に呼応してバレエにおける因習打破と革新の担い手となり,ゲリツェルEkaterina Vasil'evna Gel'tser(1876-1962),チホミーロフVasilii Dmitrievich Tikhomirov(1876-1956)以下多くの新人を育てあげ,17年の革命前後の困難な時代に偉大な功績を残した。ボリショイが革命的主題をもつ新作の上演に成功したのは27年,R.M.グリエール作曲の《赤いけし》であった。このころから首都の移転にともなう学術文化機関のモスクワ集中が開始され,バレエでは,30年にレニングラードから舞踊学校の教師陣,第一線の踊り手らのモスクワ転出がはじまり,彼らの振付作品が脚光を浴びるにいたった。30年代の半ばから独ソ戦時代にかけてレペシンスカヤOl'ga Vasil'evna Lepeshinskaya(1916- )をはじめ多くの人材が成長し,上演目録も多彩なものとなり,戦後ウラノワの移籍,50年代後半からは国外公演によってその声価はさらに高まった。64年にはYu.N.グリゴロービチを芸術監督に迎え,チャイコフスキーの三大バレエをはじめ古典の改訂,《スパルタクス》その他の新作によって現代人の共感を得た。一方プリセツカヤは自作自演の《カルメン》《アンナ・カレーニナ》によって新境地をひらくなど,同バレエ団は世界最高を誇る250名の踊り手,多彩な演目と豪華絢爛たる演出によって世界を魅了した。57年以来たびたび来日している。
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