ホー・チ・ミン(ベトナム南部の特別市)(読み)ほーちみん(英語表記)Ho Chi Minh

翻訳|Ho Chi Minh

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ホー・チ・ミン(ベトナム南部の特別市)
ほーちみん
Ho Chi Minh

ベトナム南部の特別市。旧称サイゴンSaigon。1975年まで南ベトナムの首都であったが、ベトナム統一後、ベトナム民主共和国初代大統領であった故ホー・チ・ミンにちなんで現在の名称に改められた。面積1845平方キロメートル、人口341万5300(2003推計)で、同国最大の都市である。広大なメコン・デルタの北に連なるサイゴン川デルタに位置し、河口から97キロメートル上流に展開する。

 地理的にカンボジアにも近くコーチシナの政治・文化・交通の中心地として発展してきたが、元来フランスの植民地都市であるために、歴史的な遺跡はほとんどない。旧サイゴン地区は、サイゴン川の右岸に展開する。行政府、大学、公園や、ベンタイン市場、動物園、カトリック教会などの植民地時代の建物が、碁盤目状に交差した道路の大きな街路樹に囲まれて建ち並び、かつて「東洋のパリ」と称されたおもかげを残している。サイゴン川下流部には港が広がり、川に通じる運河はショロン地区へとつながっている。ショロン地区は中国的雰囲気の活気のある商業地区で、ビール、たばこ、せっけんなどの工場や、メコン・デルタでつくられた米の精米工場などが立地している。旧サイゴン地区とショロン地区の間は、第二次世界大戦後に急速に発展した地域で、庶民的な居住地域となっている。市の人口はフランス占領当時は1万3000程度にすぎなかったが、第二次世界大戦直前には15万となり、ベトナム戦争末期には難民が集中し350万を超えた。

 1976年ベトナム社会主義共和国が誕生、1978年からホー・チ・ミン市でも社会主義的施策が行われるようになったが、長年にわたる戦争による生産基盤の破壊、物資の不足は深刻で、さまざまの困難な課題を抱えている。しかし、ベトナム戦争中に途絶していた縦貫道路は再開され、かつてのタンソンニャット国際空港も、その機能を取り戻している。

[菊池一雅]

歴史

古くはカンボジアの地で、プレイノコールPrei Nokor(森の国、あるいは綿、カポックの森の意)とよばれた。サイゴンの名は、このクメール語の古名の転訛(てんか)ないしは意訳とする説と、中国人の提岸(中国人街チョロン=フランス人の通称ショロンの漢名)の広東(カントン)音の転訛とする説とがある。17世紀後半、広南(カンナン)阮(げん)(グエン)氏の南進政策によってベトナムの勢力圏に入り、嘉定(かてい)(ザディン)府の管轄下の柴棍(さいこん)(サイゴン、漢字ではのちに西貢)の地に藩鎮営(のちに藩安鎮、さらに嘉定省と改称)が置かれた。嘉定府の中心は、最初辺和(ビエンホア)に置かれたが、18世紀、西山(タイソン)阮氏に追われた広南阮氏の一族阮福映(げんふくえい)(グエン・フク・アイン、後の嘉隆帝)が嘉定に拠(よ)って前者に対抗したころから、柴棍に移された。1802年嘉隆帝による阮朝創設にあたっては、柴棍に総鎮が置かれ、嘉定全体を統轄した(総鎮制は1832年に廃止)。フランスによる本格的なベトナム攻略は、1859年のサイゴン占領で開始され、コーチシナ直轄領の成立とともに、サイゴン=チョロンはその行政的中心地となり、またメコン・デルタの米の集散・出港地として発展した。第二次世界大戦後は1975年まで、ハノイの革命政府に対抗する南政権の首都となった。ベトナム戦争期には、アメリカの援助の下に虚飾の繁栄を示すとともに、他方では農村からの難民が流入し巨大なスラム地区が出現した。

[白石昌也]


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