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フランスの政治家。サン・ナゼールで弁護士出身のジャーナリストとして政治に関心をもつうち,友人ペルーティエの影響を受けて労働運動に接近,パリに移住後,左翼の名門紙《ランテルヌ》編集陣に加わるとともに社会主義政党の全国大会を歴訪,病弱の友人にかわってゼネストによる社会改革を唱えた。1890年代後半,労働運動における革命的な立場の代表者の一人として社会主義諸政党の間で尽力したが,ミルラン入閣問題に際して入閣支持を表明して以降その立場は転換し,1902年下院議員当選後は政権参加を狙うに至った。05年に成立した統一社会党にいったん参加したのち,党規が党員の入閣を禁じたためにこれを離れ,06年サリアン内閣に文相として参加,10年には内相兼任の首相として鉄道員ゼネストの弾圧を指揮,これを失敗に終わらせた。第1次大戦後は国際平和の確立に関心を示し,ことに25年以後はほぼ一貫して外相の地位にとどまり,ドイツとの協調を軸とする安全保障体制の確立に尽くした。主たる業績は独仏国境の安定を保障するロカルノ条約成立(1925),ドイツの国際連盟加入実現(1926),ケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)成立(1928)などであり,また30年にはヨーロッパ27ヵ国にあててヨーロッパ連邦結成に向けた覚書を送付したが実現を見るにはいたらなかった。首相就任10回を含めて,計24回入閣,31年には大統領の座を争ったが敗れ,間もなく死去。26年にシュトレーゼマンとともにノーベル平和賞を受賞した。
執筆者:相良 匡俊
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1862~1932
フランスの政治家。最初社会党の代議士としてカトリック教会規制を強く主張し,1905年の政教分離法を成立させた。06年,社会党を脱してのち,労働運動の抑圧を行い,社会主義から離れた。第一次世界大戦後首相を11回,外相を10回務め,ワシントン会議,ロカルノ条約,不戦条約の指導・成立に力を尽くし,集団安全保障を主柱とする平和外交を推進した。
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