クルップ(鉄鋼会社)(読み)くるっぷ(英語表記)Fried Krupp GmbH

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クルップ(鉄鋼会社)」の意味・わかりやすい解説

クルップ(鉄鋼会社)
くるっぷ
Fried Krupp GmbH

ドイツの名門総合鉄鋼会社であったが、1999年、同じドイツの鉄鋼メーカーのティッセン社と合併し、ティッセンクルップ社となった。クルップ起源は、1811年、フリードリヒ・クルップが鋳鉄加工を目的にエッセンに設立したクルップ商会である。経営基盤が確立したのは2代目アルフレート・クルップの時代で、鍛鉄、機械部門にも進出した。クルップのスプーン圧延機、銃身、胸甲(鎧(よろい)の胸当て)、鉄道車両、レールなどはヨーロッパ全土に販売された。1862年にはいち早くベッセマー製鋼法(ベッセマー法)を導入し、ヨハネマ製鉄所やハノーバー炭鉱を買収した。他方、大砲工場の建設などにより、垂直的統合を強力に推し進めた。

 1866年のプロイセン・オーストリア戦争、1871年のプロイセン・フランス戦争を契機に、軍需部門に生産の重点を移した。また1880年代の欧米の軍拡競争を背景に、クルップの大砲には世界各地から注文が舞い込んだ。クルップの経営原則は「政治に関与せず」ということであるが、それは戦争になれば敵味方の区別なしに武器類を販売することを意味した。1887年アルフレートの死去までにクルップの製作した大砲は、2万3000門以上に上った。なお、1836年に設置された疾病基金をはじめ、共済制度、病院建設、社宅供給など、クルップの従業員福祉制度は早くから整備されていた。

[湯沢 威]

ドイツの兵器廠

第3代目はアルフレートの息子、フリードリヒ・アルフレートである。彼の時代に装甲板の製造を開始し、ライン川下流域に新式製鉄所を建設し、マクデブルクの硬質鋳物工場、グルーゾン工場、キールのゲルマニア造船所を買収した。1902年、彼が若くしてこの世を去ると、長女ベルタがクルップ商会の全遺産を受け継ぎ、1903年には遺言により株式会社化を行った。1906年ベルタがグスタフフォン・ボーレン・ウント・ハルバハ博士と結婚した後は、グスタフが経営の陣頭指揮にあたった。第一次世界大戦で、クルップは大砲、軍艦、潜水艦などを供給し、ドイツの兵器廠(へいきしょう)と化した。

 敗戦後は、農業機械、繊維機械、映写機、タイプライターなど、「平和の商品」生産へと転換を図った。しかし1933年以降ナチスの勢力拡張とともに、クルップの工場はふたたび軍需産業に傾斜し、大幅な利益をあげた。1943年にグスタフにかわって長男のアルフレートが第5代目の当主となり、工場は軍需省の管理下に置かれた。アルフレートはナチスに協力したため第二次世界大戦後A級戦犯となった。クルップは、第二次世界大戦の敗戦によってふたたび壊滅的な打撃を受けた。

[湯沢 威]

戦後の経営危機と再建

第二次世界大戦後、クルップは解体され、1953年集中排除法の対象となった。この年、アルフレートはグループのトップに返り咲いたが、実質的にはイドゥナ・ゲルマニア保険会社のバートホルト・バイツに経営の全権がゆだねられた。同社は1960年代に入ってからふたたび経営危機に陥り、1967年には政府保証のもとに3億マルクの救済融資がなされた。また同年アルフレートの急死も重なり、クルップ商会は、アルフレート・クルップ・フォン・ボーレン・ウント・ハルバハ財団と、資本金50億マルクのフリードリヒ・クルップ有限会社に改組された。前者がクルップ家の全資産を引き継ぎ、後者の株式を所有した。1976年にはイラン政府はフリードリヒ・クルップ有限会社の資本の4分の1を所有した。1980年代はさまざまなリストラを行い、造船部門の売却、鉄鋼部門の縮小、特殊鋼部門の強化を図った。リストラの経営成果は、1990年の営業黒字に現れた。1993年に敵対的買収により、ドルトムントの鉄鋼・機械メーカー、ホッシュHoesch社を合併し、その結果2万人の人員削減を行った。1993年には創業以来初めて株式を上場したが、1997年度の株式所有は、アルフレート・クルップ財団が50.47%、イラン政府が22.925%であった。

 1994年にはイタリアのステンレスメーカー、アキアル・スペチャリ・テルニAccial Speciali Terni社を買収し、1995年にはさらにティッセン社のステンレス部門と合併して同分野の事業を強化した。1997年、国際的な競争力を強化するため、136億マルクを投じて、ティッセン社の敵対的買収に乗り出したが、相手方経営陣および労働組合からの強い抵抗で買収を断念した。しかし、世界市場における鉄鋼メーカーの競争激化のなかで、両企業の間の交渉は再開し、まず鋼鈑(こうはん)部門の統合交渉、ついで1999年には両企業の全面的な統合に発展した。ティッセンクルップ社ThyssenKrupp AGの成立である。この合併により、クルップ社では10億マルクのコスト削減と2000人の人員削減、またアルフレート・クルップ財団とイラン政府の持分はそれぞれ16.82%と7.64%と希釈化されることになった。

[湯沢 威]

『諸田實著『クルップ』(1970・東洋経済新報社)』『田中洋子著『ドイツ企業社会の形成と変容――クルップ社における労働・生活・統治』(2001・ミネルヴァ書房)』

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