精選版 日本国語大辞典 「ニジェール」の意味・読み・例文・類語
ニジェール
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西アフリカ内陸部にある典型的な内陸国。正称はニジェール共和国République du Niger。国名は国の南西端を流れるニジェール川に由来する。北はアルジェリア、リビア、東はチャド、南はナイジェリア、ベナン、西はマリ、ブルキナ・ファソと国境を接する。面積126万7000平方キロメートル、人口1304万5000(2006推計)、1673万4935(2012センサス)。アフリカのサハラ砂漠以南で2番目に広い国だが、国土の3分の2が砂漠で、人口は夏季に降雨のある南部のサバナ地域とニジェール川流域に集中する。有効な農産物に恵まれず工業化も遅れ、1人当り国民総所得(GNI)は330ドル(2008)と低い。1971年にフランス、日本などの協力でウラン開発が始まり、この収入により産業振興を進め貧困からの脱却を図っている。首都はニジェール河畔のニアメ(人口128万3888、2019推計)。
[藤井宏志]
全体に北高南低の地形を示す。中央北部には、花崗(かこう)岩とこれを貫く火山岩からなるアイル山地があり、この国の最高峰グレブーン山(1944メートル)をはじめ標高1500メートル以上の高峰が南北に並んで、東のチャド湖と西のニジェール川との分水嶺(ぶんすいれい)になっている。北東部には標高1000メートル前後のマンゲニ高原がある。アイル山地の東には砂丘列のため通過困難なテネレ砂漠、西にはワジ(涸(か)れ谷)が刻まれたタラクの礫(れき)砂漠が広がる。アイル山地とマンゲニ高原を除けば大半は標高200~600メートルの平原で、場所によっては高い断崖(だんがい)や突出した岩塊があり、単調な地形に変化を与えている。
北部、中部は通年サハラの高気圧に覆われて雨がきわめて少なく、砂漠気候を示す。南部は夏季300ミリメートルから600ミリメートルの降雨があるステップ、サバナ気候で、農業地帯となっている。しかしサヘルとよばれるこの地域は、降水量が不安定で干魃(かんばつ)の被害を受けやすく、最近は砂漠化が進行している。年平均気温は28℃前後で全体に暑い気候だが、北部では冬20℃近くに下がってやや涼しくなる。南部では年に二度太陽の高度が最高になる(太陽が二度頭上を通過する)ため雨期の始まる5月にもっとも暑くなり、8月にやや涼しく、雨期の終わる10月にもう一度暑さのピークがある。砂漠では気温の日較差が大きい。
[藤井宏志]
地理的に、北部・中部の砂漠地域、南部のサバナ地域、南西部のニジェール川沿岸地域の3地域に区分される。砂漠地域では水の得られる山麓(さんろく)、高原麓にアガデス、ビルマのようなオアシスがある。オアシスでは野菜、果物、ナツメヤシが栽培され、遊牧の拠点でもある。かつては隊商路の中継地として栄えた。古くから岩塩の採掘が行われたが、近年ウランが発見され他の鉱物の埋蔵も期待されている。サバナ地域は夏季に降雨があり、アワ、ヒエ、モロコシ(ソルガム。イネ科の穀物)、トウモロコシ、綿花、ラッカセイなどが栽培され、ウシ、ヒツジの牧畜も行われる。チャド湖での漁業もある。ジンデル、マラディ、タウアなどの都市は農産物の集散地で農産加工の工場がある。ニジェール川沿岸地域には農村、漁村が散在し、キャッサバ(南米原産の根茎作物。根を食用とし、タピオカの原料となる)、野菜、米を産し漁業も行われている。首都ニアメは国の政治、経済の中心である。ベナンとの国境近くにはサバナの自然を残した「W国立公園」(Wはドゥブルベとよむ)があり、ライオン、ゾウ、カモシカなどが保護されている。W国立公園は1996年、「ニジェールのW国立公園」として世界遺産の自然遺産(世界自然遺産)に登録された(2017年に登録地がブルキナ・ファソ、ベナンへも拡張し、登録名は「W・アーリー・ペンジャリ保護地域群」に変更された)。このほか「アイールとテネレの自然保護区群」も自然遺産に登録されているが、保護区内で起こった内戦の影響により、1992年には危機遺産リスト入りしている。
[藤井宏志]
地中海岸とギニア湾岸を結ぶ隊商路と、ニジェール川とチャド湖を東西に結ぶスーダン回廊とが交わる十字路にあたり、古くから周辺各国の争奪の地であった。現在の国土の領域はフランスによる植民地化によりつくられたもので、近世までは諸民族によるさまざまな国がこの地に盛衰した。18世紀には北部でアガデスを中心にトゥアレグ王国が成立し、南部ではハウサ諸王国、フラニ諸王国が支配を競った。19世紀になってマンゴ・パークらのヨーロッパ人探検家が来訪し、その後フランスとイギリスが領有を争ったが、19世紀末フランス軍が占領し、1899年までにナイジェリアとの国境を確定した。1911年軍政上3分割されていたのを統一し、1922年フランス領西アフリカの一部となった。第二次世界大戦後フランス連合の海外領となり、1958年フランス共同体の一員となったのち、1960年ハマニ・ディオリHamani Diori(1916―1989)の指導のもとに独立を達成した。ディオリは初代大統領として長く政権の座にあったが、1974年参謀長セイニ・クンチェSeyni Kountché(1931―1987)を中心とするクーデターが起こり、クンチェを議長とする最高軍事評議会が政権を握った。
[藤井宏志]
1974年のクーデターで憲法を停止、議会を解散し、最高軍事評議会議長に参謀総長クンチェが就任した。1987年11月、議長クンチェの死去により参謀総長アリ・サイブAli Saibou(1940―2011)が議長となった。1989年12月、民政移管し、サイブが大統領に就任した。1993年2月の複数政党制による国民議会選挙では野党連合の変革勢力同盟(AFC)が過半数を占め、翌月の大統領選挙では党首ウスマヌMahamane Ousmane(1950― )が当選した。1996年1月国軍がクーデターを起こし、メナサーラ大佐Ibrahim Baré Maïnassara(1949―1999)を議長とする救国委員会が政権を握った。委員会は年内に民政移管を行うとし、同年7月大統領選挙を実施、議長のメナサーラが当選した。1999年4月に軍のクーデターが発生、大統領のメナサーラは暗殺され、ワンケ少佐Daouda Malam Wanké(?―2004)を議長とする軍事政権(国家和解評議会)が発足し、新憲法が起草された。この憲法は7月の国民投票で支持された。ついで民政移管のための大統領選挙が10月に実施され、発展社会国民運動(MNSD)のママドゥ・タンジャMamadou Tandja(1938―2020)が当選した。2004年12月の大統領選挙でタンジャは再選された。2007年以降北部のトゥアレグ民族を中心とする反政府勢力、正義のためのニジェール運動(MNJ)の活動が活発化している。2009年4月大統領は2期目の任期を3年延長し、3選禁止の撤廃を表明して8月の国民投票で承認を得た。非同盟中立の立場をとるがフランスとの関係が深い。行政は30地方に分かれ、その下に市、村があり、それぞれの首長、役所、議会がある。司法は近代的な三審制度をとっている。軍備は選抜徴兵制(2年)。総兵力5300人、フランス軍1500人が駐留。
[藤井宏志]
農牧業に依存する経済で、乾燥内陸国のため貧困化の一途をたどっていたが、1971年アイル山地西麓のアルリトでウラン開発が始まり、2009年1月には北部のイムラレン鉱山開発をフランスのアレバに委託した。積極的な経済開発が展開されようとしている。
就業人口の90%が農牧業に従事しているが、年平均降水量は515ミリメートル(首都ニアメ)と少なく、しかも10~4月はほとんど降水量がないなど不安定であり、地域によっては年間を通じてほとんど降水のないところもある。また、技術水準が低いことも問題である。農畜産業に必要な年降水量は農耕地で350ミリメートル、牧畜地帯では150ミリメートルが限界とされ、可耕地は国土の12%といわれるが実際には2.5%しか農耕地になっていない。自給作物としてアワ(278万トン。2007、以下同じ)、モロコシ(98万トン)、キャッサバ(12万トン)、白インゲン(28万トン)、米(7万トン)を生産しており、干魃(かんばつ)の年以外は自給量に達している。商品作物にはラッカセイ(15万トン)、綿花(1089トン)、サトウキビ(22万トン)、アラビアゴムがある。砂漠、ステップで遊牧、サバナで牧畜が行われ、ウシ824万頭、ウマ23万頭、ロバ46万頭、ラクダ37万頭、ヒツジ・ヤギ2201万頭が飼育されている。漁業はニジェール川、チャド湖で行われ、3万トンを漁獲し、干物、薫製にしてナイジェリアなどに輸出する。
ウラン鉱は推定埋蔵量274万トン、生産量3032トン(2007)でともに世界第3位である。アルリト鉱山が中心で、二つの採鉱会社にはニジェール政府、フランス、スペイン、日本などが出資していた。鉱石は専用道路によって運搬され、コトヌー港(ベナン)から輸出される。このほか石炭、錫(すず)、燐(りん)鉱石、岩塩などの鉱産資源がある。工業は農産加工が中心で、ラッカセイの脱殻・製油、綿糸、綿織物、衣服、製粉、皮革、ビールのほか、プラスチック、セメント、建材などもある。工業都市としてニアメ、マラディ、ジンデルがある。伝統工芸ではジンデルの革細工、ニアメの金細工、アガデスの銀細工が知られている。
輸出品目では農産物にかわりウランが63.2%(2007、以下同じ)を占め、以下金12.4%、野菜、家畜、ラッカセイ油となっている。輸入品目は石油製品(15.1%)、自動車、医薬品、機械などである。主要輸出相手国はフランス(44%)、日本、スイス、ナイジェリア、アメリカ、主要輸入相手国はフランス、アメリカ、コートジボワールで、輸出入ともフランスの占める割合が大きい。
道路総延長は1万3187キロメートル(1987)である。アルリト―ドソ―ベナンのウラン輸送道路はよく整備されている。トランス・サハラ自動車道の2本(アガデス―ジンデル、ニアメ―ドソ)が通過している。ガヤが代表的河港である。ニアメに国際空港があり、国内諸都市に20の空港がある。
[藤井宏志]
植民地時代の人為的国境策定で複数部族国家となっている。主要部族は遊牧民と農耕民とに大別される。遊牧民にはアイル山地より西の砂漠に分布するトゥアレグ人(3%)、東の砂漠に分布するトウブー人、全域に分布し定住化して牧畜を行うプール(フルベ)人がいる。農耕民には南西部に住むソンガイ人(24%)、南部中央のハウサ人(54%)、南東部に住むカヌーリ人(11%)がいる。宗教はイスラム教徒(ムスリム)が多く人口の85%を占める。公用語はフランス語であるが、ハウサ語も広く使われ、部族内では各部族語が用いられる。トゥアレグ人のタマシェク語以外は文字がなく、語部(かたりべ)(グリオ)が存在する。
人口増加率は3.6%(2000~2006)と高く、年齢別人口構成はピラミッド型で、15歳以下が49.5%を占め、将来の教育と雇用に大きな問題を抱えている。ギニア湾岸諸国への労働移住も多い。医師、看護師ともきわめて少なく、病院も都市に限られ、医療水準は低いが、国連の援助で伝染病・風土病対策が進められつつある。教育は小学校の上にリセ(中等教育の中学・高校にあたる)、技術学校、師範学校などがあり、ニアメにはニジェール大学がある。就学率は低く、識字率は男44%、女16%と低い(2007)。近年テレビ放送による教育が試みられている。
[藤井宏志]
ウラン開発以来、核燃料を求める日本との関係は緊密の度を増している。ニジェール政府31%、フランス34%、日本25%、スペイン10%の出資比率で鉱山会社をつくり、ウランの開発を行っている。2006年(平成18)にはウラン鉱石1014トンを日本が輸入した。日本から自動車、オートバイ、綿布、建設機械を輸出した。また援助として道路、発電所、病院の建設、地下水開発を行っている。青年海外協力隊が派遣されている。
[藤井宏志]
『M・パーク著、森本哲郎他訳『ニジェール探検記』(1977・河出書房新社)』▽『P・ドナン他著、小堀巌訳『ニジェール』(白水社・文庫クセジュ)』
基本情報
正式名称=ニジェール共和国République du Niger
面積=126万7000km2
人口(2010)=1520万人
首都=ニアメーNiamey(日本との時差=-8時間)
主要言語=ハウサ語,フランス語
通貨=CFA(中央アフリカ金融共同体)フランFranc de la Communauté Financière Africaine
西アフリカの内陸国。北はアルジェリア,リビア,東はチャド,南はナイジェリア,ベニン,西はブルキナ・ファソ,マリと国境を接する。北部のサハラ砂漠が国土の2/3を占め,その南に続く北部サヘル地帯では牧畜が,南部サヘル地帯とニジェール川流域のスーダン地帯ではおもに農耕が行われているが,可耕地は国土の10%にすぎない。世界で最も暑い地域の一つである。
執筆者:大林 稔
南西から北東にのびる国土は,かなり複雑な地形を示すが,おおまかにみると北高南低の起伏となっている。中央部から平均標高約800mをこすアイルAïr山地が北にのび,その東部のチャド湖盆水系と西部のニジェール水系との分水界をなしている。南東端にはチャド湖があり,南西端をニジェール川が流れ,周辺の南部一帯はあまり高度のないラテライト(紅土)の台地となっている。
気候はほとんど乾燥型で,中部,北部は砂漠気候,南部はステップないしサバンナ気候である。気温は高温で,年平均30℃前後であり,年降水量は最も多い最南部でも600mmをこす程度である。植生は,最南部はスーダン型のサバンナとなるが,北に向かうほど植生は貧弱となり,中部以北は砂漠となる。
執筆者:端 信行
住民の大部分は西部のニジェール川流域と,南部のサヘル地帯に集中している。人口の多い部族をあげると,ハウサ族(54%),ソンガイ族および近縁のジェルマ族Djerma(23%),フルベ(フラニ,プール)族(10%)などで,ほかにトゥアレグ族(3%)もいる。住民の85%がイスラム教徒で,残りのほとんどは部族固有の伝統宗教を信仰している。歴史的には,西部はソンガイ帝国,中部はハウサ諸国,そして東部はカネム・ボルヌー帝国にそれぞれ支配された。サハラ砂漠の南縁のこの地方は,砂漠を縦断する隊商交易の南の基地となり,早くからジンデル,マラディなどの町が開けた。10~11世紀には早くもイスラムが入り,都市住民は改宗したが,村落部にまで行き渡ったのは19世紀である。
ハウサ,ソンガイ,ジェルマ,カヌリ族Kanuriなどの農耕民は,土壌の肥沃な南部を占め,ミレット,モロコシなどの雑穀を主作物として栽培するほか,ラッカセイやワタなどの商品作物を生産している。ソンガイはニジェール川で,カヌリはチャド湖での漁労も行う。これらの人々は交易にも盛んに従事し,都市,町,村落を結ぶ市場の発達も進んでいる。ハウサはとくに有能な商人として知られている。もともと遊牧民であったフルベ族は,今では村落や町に定住する者が多く,遊牧の生活様式を守る者はボロロと呼ばれている。雨季と乾季で規則的に移動し,乾季には農耕民の収穫が終わった畑に入り,切り株などを牛に与え,同時に畑に施肥を行う。1960年代末と70年代初めの大干ばつにより,牧畜民と農耕民との共存は破れ,牛などの家畜の大半は失われた。農業への打撃も大きく,住民の多くはナイジェリア,ガーナ,トーゴ,コートジボアールなどへ出稼ぎに出た。公用語はフランス語であるが,ハウサ語が広く普及している。
執筆者:赤阪 賢
この地域は植民地化されるまで,単一の領土に統合されたことはなかった。ニジェール川流域には9世紀ごろにソンガイ帝国がおこり,16世紀前半には北のアイル山地から南のハウサ諸国までを支配下におき,同じころ膨張期を迎えた東のカネム・ボルヌー帝国と領土を接したが,16世紀末にモロッコ軍に倒された。黒人系部族が住んでいた北部には7~11世紀にトゥアレグ族が浸透し,以後諸部族の抗争が続いた。中南部には14世紀ごろまでにハウサ諸国が形成されたが,19世紀初めフルベ族のウスマン・ダン・フォディオのジハード(聖戦)によって滅ぼされた。19世紀末にイギリス,フランスがこの地域に進出し,1890年と98年の両国の協定でフランスの支配が確定,1904年と06年の両国の合意により現在の国境がほぼ定まった。フランスは21年までかかって現地アフリカ人の激しい抵抗を平定し,22年にニジェール植民地を発足させ,フランス領西アフリカ連邦の一部とした。
ニジェールの独立運動は50年代末,親仏派のディオリHamani Dioriの指導するアフリカ民主連合ニジェール支部にあたるニジェール進歩党(PPN)と,左派バカリDjibo Bakaryのニジェール民主同盟(UDN)とによって進められた。57年に自治政府が認められ,自治共和国としてフランス共同体内にとどまるか否かを問うた翌58年9月の国民投票では,ディオリは賛成を,バカリは共同体からの離脱を主張したが,結果は78%が賛成票であった。同年12月の総選挙でPPNが勝利を収め,ニジェールはディオリを首相とし,フランス共同体内の自治共和国となった。ディオリは59年にUDNの後身サワバ党を禁止した。60年8月3日,ニジェールは完全独立を達成,ディオリは初代大統領となり,強権的支配体制をしいた。
1967-74年のサヘル干ばつでニジェールは最大の被害国となったが,ディオリ政権は腐敗と非能率のため適切な救援を行うことができなかった。74年4月,クンチェSeyni Kountche参謀総長がクーデタを起こし,みずから最高軍事評議会議長に就任,軍政をしいた。その後数度のクーデタ未遂事件が起こるなど政情は安定しなかったが,ウラン開発の進展による経済成長に支えられて,クンチェ議長はしだいに権力基盤を固めた。83年1月には首相職を新設して政策の調整と執行の権限を与え,また〈発展社会〉と名づけられた総合機構への国民の組織化を進めるなど,民政移管への体制づくりを図った。またクンチェ政権は成立後ただちに駐留フランス軍を撤退させ,外交・経済関係の多角化を図った。83年8月に始まった全国開発評議会(CND)は立法権をもたず,諮問機関にすぎなかったが,87年6月,将来の新憲法の基礎となる国民憲章が採択された。87年11月,クンチェ最高評議会議長がパリで病死し,クンチェのいとこである国軍参謀長アリ・セイブAli Seybou(1940- )が後任に選ばれた。89年9月,新憲法が国民投票で承認され,同年12月の大統領選挙ではセイブ議長が選ばれた。
1人当りGNPは220米ドル(1995)であり,同国はアフリカ(1人当りGNP平均490米ドル)でも特に貧しい国の一つである。ニジェール経済は農業への依存度が高い。同国の経済構造(1995)は農業39%,工業18%,サービス44%で,農業のシェアはサハラ以南アフリカの平均(20%)の約2倍である。また農業は91%(1995)の労働力を吸収している。他方,工業生産のほとんどが鉱業に依存し,製造業の発達が見られないのも特徴のひとつである。
1971年に開始されたウラン生産は輸出のおよそ70%を占める経済の近代部門の中心に成長した。このためニジェール経済はウランの国際市況に依存して大きな変動を経験するようになった。製造業は農産物加工(ラッカセイ搾油,繰綿,精米)と輸入代替(紡績,建材,ビール)の軽工業からなる小規模なものである。
内陸国であるため,海外との貿易はおもにベニンのコトヌー港経由で行われている。鉄道はない。貿易はフランスが輸出入とも約半分を占め,その他の輸出相手国は日本,ナイジェリア,輸入相手国はナイジェリア,アルジェリアなどである。ナイジェリアと国境を接しており,インフォーマルな交易や歴史的結びつきが強い。このためナイジェリアの経済的影響を強く受ける。ECとのロメ協定に調印し,西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA),西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS),協商理事会などの地域協力機構に加盟している。
執筆者:大林 稔
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
西アフリカ内陸部の共和国。国土の大半が砂漠で,南西端を横ぎるニジェール川周辺が農耕適地。19世紀末,フランスが支配を広げ,1922年フランス領植民地,60年に独立した。人口の半分はハウサ人,それにソンガイ人,トゥアレグ人,フルベ人などがいる。89年に民政移管,93年に民主的選挙がなされたが,経済は停滞しており,フランスへの依存が強い。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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