龍蔵寺(読み)りゆうぞうじ

日本歴史地名大系 「龍蔵寺」の解説

龍蔵寺
りゆうぞうじ

[現在地名]鶴岡市睦町

常念じようねん寺の西にある。宝雲山と号し、曹洞宗本尊聖観音。永正年間(一五〇四―二一)武藤氏により創建されたと伝える。初め地安ちやす村にあり、慶長一六年(一六一一)最上義光から寺領五九石余寄進の黒印状を与えられた(大泉掌故)。寺領の内訳荒井京田あらいきようでん村一二石余・地安村八石余・中野京田なかのきようでん村三八石余(元和八年庄内寺社領目録)。その後鶴ヶ岡城南ののちの百間堀端ひやつけんほりはたの辺りに移転、元和八年(一六二二)の酒井氏入部後の郭内拡張に伴い現在地に移転した(大泉掌故)

龍蔵寺
りゆうぞうじ

[現在地名]加須市大門町

無着山龍光院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。元禄九年(一六九六)の浄土宗寺院由緒書(東京都増上寺文書)によれば、文和四年(一三五五)慈智翁教蔵が草創したという。教蔵は樋遣川聖徳ひやりかわしようとく寺開山唱名の弟子で、藤田派の僧である。一説には、往古龍蔵寺一帯は利根川による中洲が形成されており、中洲の一つである鬼島にすむ物怪の霊(白竜)を教蔵が鎮め、その地に一宇建立したことにちなんで龍蔵寺と名付けたと伝える(郡村誌)。慶安二年(一六四九)一〇月一七日徳川家光より寺領二二石余が寄進され(「徳川家光朱印状」龍蔵寺文書)代々安堵された(同文書)

龍蔵寺
りゆうぞうじ

[現在地名]前橋市龍蔵寺町

龍蔵寺町の南東部にあり、青柳山談議堂院と号し、天台宗、本尊阿弥陀如来。東国天台談林八ヵ寺の一。寺伝によれば、延暦二年(七八三)日光開山の勝道が青柳あおやぎ村のうちに一寺を建立し、満願まんがん寺と名付け、寛和二年(九八六)仙加により一刀三礼の三大師の像が安置されたという。貞治―応安(一三六二―七五)の頃、笠間道玄入道が厩橋城の鬼門除けのため現在地に移し、現寺名とし、満願寺は日光に移した。現在の境内地は、もと利根川の潜竜深淵の地で俗に竜ヶ淵といったが、河道の変化により開拓して伽藍を建立したという。「本朝高僧伝」によれば、上州満願寺の界尊は応安三年龍増寺を開き、豪尊を招いて開山としたという。

龍蔵寺
りゆうぞうじ

[現在地名]今市市大沢町

大沢おおさわ宿東の山麓にある。大沢山密厳院と号し、真言宗智山派。本尊は大日如来。建仁年間(一二〇一―〇四)の創建と伝え、南東の木和田島きわだしま八日市ようかいちに近い字西原にあり、万治三年(一六六〇)に現在地へ移転したという(地誌取調)。慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)に「日光山大沢」の「瀧蔵寺」がみえる。将軍徳川家光は日光に入る前の最後の昼の休憩を当寺でとっていた。

龍蔵寺
りゆうぞうじ

[現在地名]長岡市親沢町

地内山手にある。真言宗豊山派、瑠璃山と号し、本尊薬師如来。寺伝によると、大化元年(六四五)三論宗の僧日恵が諸国布教の折、錫を当地にとどめ、一宇を建立。大同元年(八〇六)坂上田村麻呂が七堂伽藍を建立し、弘仁五年(八一四)空海来寺のとき真言宗に転じたという。源頼朝が深く帰依し、朱印五千貫を寄付、広壮な寺であったが、のち堂舎退廃。上杉顕定再興。天正三年(一五七五)八月、上杉謙信参詣のうえ仏器などを寄進したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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