麻生田村(読み)あそうだむら

日本歴史地名大系 「麻生田村」の解説

麻生田村
あそうだむら

[現在地名]熊本市清水しみず町麻生田・清水町兎谷うさぎだに・清水町楡木にれのき・清水町新地しんち

岩倉いわくら(一二五・八メートル)の北側斜面に広がり、東と南は上立田かみたつだ村、南は万石まんごく村、西は山室やまむろ村・亀井かめい村に接する。慶長一三年(一六〇八)の「立田村之内麻生田村」検地帳では田方一町九反余・畠方二三町七反余、分米一一五石四斗余、竈数七・棟数二四、男一六・女一一、馬三・牛三。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では坪井源右衛門尉手永に属し、当竿前は田一町六反余・畠一九町四反余・山畑二町三反余、ほかに二反六畝の野開がある。その後五町手永に属し、「国誌」に「楡ノ木ト云小村アリ」とある。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳では惣畝数二五町八反余、うち本方二三町三反・新地一反余・諸開二町八反余で、このほか麻生田新地・楡木・兎谷には地筒衆拝領地入込が合計一〇町五反、亀井村新畝物入込一反五畝がある。

麻生田村
おうだむら

[現在地名]北勢町麻生田

ひがし村の東、員弁川の東岸に位置する。「神鳳鈔(新校群書類従本)に「麻生田御厨十五丁、三石」とあり、同書奥書の注記に従えば、少なくとも建久四年(一一九三)には、伊勢神宮領となっていたと推定しうる。また「外宮神領目録」にも「麻生田御厨 大豆五斗」とある。

江戸時代には桑名藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)には高五四二・三八七石のうち、田方二一九・七三石、畑方三二二・六五七石とあり、また天明四年(一七八四)手控帳でも田四町余、畑一八町余とあり、畑方のほうが多い。

麻生田村
あそうだむら

[現在地名]長岡市麻生田町

東山丘陵西麓にある。南の宮路みやじ村、北の浦瀬うらせ村とは山沿いを走る東山通(見附往来)で結ばれる。文明(一四六九―八七)頃の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に飯沼遠江守分の高波たかなみ保のなかに、被官本間与五郎預の地に「麻生田」があり、本田・増分と同一九年再検地増分合計は四万二千四四五束苅。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「あそふ田」がみえ、伊勢御師の檀那所在したものと思われる。天正村名考(温古之栞)にも「あさふ田」と記す。天正一〇年(一五八二)一〇月二〇日付の河田岩鶴丸知行宛行状(井上昇三氏所蔵文書)によると、岩鶴丸が山田修理亮に対し「内山分あそう田たてまわり山やしき」を知行させている。

麻生田村
あそうだむら

[現在地名]豊川市麻生田町

楠木くすぎ村の西に続く。「麻生田村誌」に「往古、禁裡ヘ麻ヲ献ジタルヲ以テ、村名トスト云ヘリ」とある。村名は賀茂神社文書文永元年(一二六四)六月の権祝賀茂某訴状案(早稲田大学蔵)に「一宮領内麻宇田村」とある。これは小野田おのだ(現豊橋市)内で神主惟平の代に強盗事件があり、この強盗が当地に逃込んだというものである。これにより鎌倉時代に当地が一宮すなわち砥鹿とが神社(現宝飯郡一宮町)領であったことが知られる。

麻生田村
あそだむら

[現在地名]大宇陀町大字麻生田

内原うちはら村西方、女寄めより峠東側に所在。阿曾谷あそだに(三箇院家抄)転訛か。中世、興福寺一乗院領の北・南両阿曾田あそだ庄に属す。鎌倉時代の宇太水分神社古図に「北葦谷」「南葦谷」の地名を記す。麻生田は「北葦谷」に該当すると考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報