鹿角街道(読み)かづのかいどう

日本歴史地名大系 「鹿角街道」の解説

鹿角街道
かづのかいどう

盛岡城下と陸奥鹿角郡を結ぶ道で、鹿角往来ともよばれ、弘前(津軽)藩領へもつながっていたので、近代以降は津軽街道とも称した。盛岡城下の鍛冶かじ町を起点とし、北上川に架かる夕顔瀬ゆうがおせ(現盛岡市)を渡り、ここで秋田街道から分岐し、栗谷川くりやがわ(現同上)滝沢たきざわ(現岩手郡滝沢村)大更おおぶけ村・田頭でんどう村・寺田てらだ(現同郡西根町)を経て、七時雨ななしぐれ山中腹の車之走くるまのはしり峠を越えて荒屋あらや(現安代町)へ至る。荒屋村の北の曲田まがた(現同上)福岡ふくおか(現二戸市)から天台てんだい(現浄法寺町)を経てきた浄法寺じようぼうじ街道が合する。安比あつぴ川と米代よねしろ川の分水嶺をなすなし峠を越え、米代川に沿って田山たやま(現安代町)を過ぎて鹿角郡に入る。奥州街道と羽州街道を結ぶ連絡路として古代から重要視され、元慶の乱に際し坂上好蔭が兵二千を率いて通った「陸奥路」は(「三代実録」元慶二年八月四日条)、七時雨山を越えるこの道であろう。七時雨山は山岳宗教の霊地であったと思われ、また山麓には白坂しらさか観音(現西根町)桂清水かつらしみず観音(現浄法寺町)があり、室町時代以降奥州三十三観音の札所を巡る人々が通過した。

鹿角街道
かづのかいどう

奥州街道を盛岡(現岩手県)から分れて西へ向かい、現秋田県に入って大館で羽州街道に合する津軽街道(秋田街道)のうち、秋田県内を通る部分をいう。道は田山たやま(現岩手県二戸にのへ安代あしろ町)から秋田県に入ってほぼ米代川に沿い、湯瀬ゆぜ花輪はなわと北上し、室田むろたを出て南西松山まつやま土深井どぶかいと進み、十二所じゆうにしよ(現大館市)扇田おうぎだ(現北秋田郡比内ひない町)を経て大館に至る。花輪室田間は毛馬内けまない道ともいう。菅江真澄は「けふのせば布」に「みちのおくの南部鹿角郡土深井といふ里を左に出て、松山の館をへて岨路わけくれば、木ぶかう茂る山陰にはらはらと鳴る音のうちしきるは、いかにと草かるあけまきにとへは、鹿のなづきおしとて、雄鹿としの、ぬかとぬかとをおし合ひ、角と角とを打たたかはしけるその音といふ」と記す。

鹿角街道
かづのかいどう

三戸郡と鹿角郡(現秋田県鹿角郡・鹿角市)を結ぶ街道。三戸郡三戸村(現三戸町)で奥州街道から分岐し、田子たつこ(現田子町)を経て来満らいまん峠を越え、鹿角郡の大湯おおゆ(現鹿角市)へ抜けて、毛馬内けまない(同市)に至る。三戸郡では熊原くまはら川にほぼ沿う。街道の開設の時期は不明であるが、永禄一二年(一五六九)鹿角郡を奪った秋田氏を討つべく、南部高信を将とする軍勢が来満山中を越えて鹿角へ侵攻したと伝えられる(南部史要)。来満山の東手前の夏坂なつざか(現田子町)には番所があり、交通・輸送の監視に当たったが、藩政初期より開設されていたものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鹿角街道」の意味・わかりやすい解説

鹿角街道
かづのかいどう

岩手県北西部,二戸市から秋田県北東部,鹿角市にいたる街道。二戸市福岡で奥州街道 (国道4号線) から分岐,安比川 (あっぴがわ) に沿って南西方面に走り,八幡平市五日市で津軽街道 (国道 282号線) に合し,鹿角市花輪にいたる。

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