鷹子村(読み)たかのこむら

日本歴史地名大系 「鷹子村」の解説

鷹子村
たかのこむら

[現在地名]豊田町大字鷹子

山の北麓で粟野あわの川の支流鷹子川流域に村落がある。北は肥中ひじゆう街道を境に八道やじ村、東南方は涼松垰すずみまつだおを境に庭田にわた村、西は鷹子山を境に木工路子むくろうじ村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属す。

村内東福とうふく寺旧蔵の享徳二年(一四五三)の仏像銘に「長州豊浦郡鷹子郷」とある。地名の由来を「地下上申」は「往古涼松と申大木有之、鷹巣を懸ケ申たる由、其故鷹子村と申伝候」と記す。文禄四年(一五九五)の「杉少輔九郎給地付立之事」(「閥閲録」所収杉七郎左衛門家文書)に、

<資料は省略されています>

とあるが、慶長期(一五九六―一六一五)検地帳にはその名はみえない。

鷹子村
たかのこむら

[現在地名]松山鷹子町たかのこまち

松山平野の南東平坦部に位置する農村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)久米くめ郡の項に「鷹子村 日損所、松林有」とある。

境域は古代の久米吉井よしい(和名抄)内の北部と考えられる。中世には、河野氏の統治下にあり、室町時代にはその家臣の仙波氏の支配を受けた。近世に入り、加藤嘉明・蒲生忠知の治世を経て、松平氏による松山藩領となった。

周辺に流水の豊富な河川がなく、村では灌漑用水を上手にあたる小野おの地区の余水と、原大はらおお池・かみ池・しん池・五郎ごろう池などの溜池に頼っていたため、旱魃の際には凶作となる場合が多かった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報