鷹司家(読み)たかつかさけ

改訂新版 世界大百科事典 「鷹司家」の意味・わかりやすい解説

鷹司家 (たかつかさけ)

藤原氏北家の嫡流,五摂家一つ近衛家実の四男兼平を始祖とし,家号は兼平の殿第が鷹司室町にあったのに由来するが,また楊梅小路に面した猪隈殿をも伝領したため,楊梅の称もある。鎌倉時代の初めから近衛・九条両家の対立が激しくなったが,承久の乱後,九条道家とその3人の子が相ついで摂関の地位を占め,九条家の全盛をほこった。しかし1246年(寛元4)に起きた前将軍藤原頼経(道家の男),名越(北条)光時らの謀反陰謀事件により,道家とその男摂政実経が失脚し,近衛兼経が摂政に再任されて,近衛家の得意時代を迎えた。兼経は朝政刷新を目ざす後嵯峨院政の重鎮として,禁中・院中にわたり勢威をふるったが,52年(建長4)弟の兼平に摂政を譲った。以後兼平は摂関に任ぜられること4度,前後23年にわたり執政の座を占め,近衛家から分立して一家を立て,五摂家の一つとなった。室町末期,12代忠冬の没後継嗣がなく,断絶の危機に迫られたが,約30年後,織田信長の斡旋により二条晴良の三男信房が継嗣となり,また江戸中期,閑院宮直仁親王の王子が基輝の嗣となって家を継ぎ,輔平と称した。幕末維新の交,政通は30年にわたって関白に在職し,とくに孝明天皇の信任が厚く,関白辞任後も重要な政務諮問にあずかった。その男輔煕も大臣・関白として難局に当たったが,尊攘派に同情的であったため,しばしば幕府の要求により処罰された。王政復古が成るや,輔熙は議定や留守長官などの要職に任ぜられたが,まもなく隠退し,その孫熙通に至って公爵を授けられた。鷹司家の所領は,近衛家領より分譲された十数ヵ所の荘園から出発したが,江戸時代には1500石の知行をあてがわれた。また政通は家蔵典籍・記録等を整理し,収集・書写に努めたが,それらの蔵書は,現在宮内庁書陵部に約3500部架蔵されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鷹司家」の意味・わかりやすい解説

鷹司家
たかつかさけ

藤原氏北家(ほっけ)嫡流。五摂家の一つ。鎌倉中期の近衛家実(このえいえざね)の四男兼平(かねひら)を祖とする。兼平は1252年(建長4)兄近衛兼経(かねつね)の後を受けて摂政(せっしょう)、ついで関白(かんぱく)となった。以後子孫も他の摂関家と並んで、交互に摂政・関白に任ぜられるようになり、摂関家としての家格も定まり、家領もできて一家が成立した。五摂家のなかでは最後の成立である。家名は、兼平の邸が京都鷹司室町(むろまち)にあったところから称された。室町末期、12代忠冬(ただふゆ)のあと嗣子(しし)がなく、約30年中絶していたが、1579年(天正7)織田信長の口添えで、同じ五摂家の二条晴良(はるよし)の三男信房(のぶふさ)が鷹司家を継いで再興した。江戸中期、基輝(もとてる)のあとも後嗣に欠け、閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう)の皇子を迎えて輔平(すけひら)と名づけ継がせた。幕末、政通(まさみち)・輔煕(すけひろ)父子は開国前後の公武の多難な時期に摂政・関白となり活躍した。江戸時代、知行高(ちぎょうだか)は初め1000石、のちに1500石となった。明治維新後、華族となり公爵を授けられた。輔煕の孫煕通(ひろみち)は大正天皇の侍従長を務めた。家蔵の書籍、文書も多く、そのほとんどは政通の手によって整理され、また欠を補われている。蔵書にはたいがい「鷹司城南館」の蔵書印が捺(お)されており、明治維新後あげて明治天皇に献上され、現在は宮内庁書陵部にある。

[飯倉晴武]


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百科事典マイペディア 「鷹司家」の意味・わかりやすい解説

鷹司家【たかつかさけ】

藤原氏北家(ほっけ)の嫡流,五摂家(ごせっけ)の一つ。近衛(このえ)家実の子兼平(かねひら)を祖とし,その邸が鷹司室町(むろまち)にあったので鷹司を家名とした。兼平は摂政・関白となり,近衛・九条・二条・一条の4家とともに摂政関白に任ぜられる家柄となった。明治期に至り公爵(こうしゃく)を授与された。
→関連項目石黒荘浮田荘椋橋荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鷹司家」の解説

鷹司家
たかつかさけ

藤原氏北家嫡流の近衛家の支流。五摂家の一つ。鎌倉前・中期の近衛家実の四男兼平(かねひら)を家祖とする。家名は兼平の邸宅が鷹司室町にあったことによる。1252年(建長4)兼平は兄近衛兼経の譲りをうけて摂政に補され,子孫も他の摂家と並んで交互に摂関に任じられた。家領は,兼平が近衛家から分与された荘園が根幹。戦国期に忠冬没後中絶したが,織豊期に二条晴良の三男信房が再興。江戸時代の家禄は1000石,のち1500石。幕末の政通は33年余り関白を勤め,維新後,熙通のとき公爵。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鷹司家」の意味・わかりやすい解説

鷹司家
たかつかさけ

藤原氏の一支流。五摂家の一つ。鎌倉時代,近衛実家の第4子兼平に始った。代々摂政,関白となる者が多く,明治になって公爵。 (→摂家 )

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旺文社日本史事典 三訂版 「鷹司家」の解説

鷹司家
たかつかさけ

藤原北家の分流で,五摂家の一つ
近衛家実の子兼平を祖とし,邸が鷹司室町にあったので鷹司を称した。1252年兼平が摂政となってから,ほかの4家とともに摂政・関白に任ぜられる家柄となる。

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