鷹匠小路(読み)たかしようこうじ

日本歴史地名大系 「鷹匠小路」の解説

鷹匠小路
たかしようこうじ

[現在地名]盛岡市しも橋町はしちよう馬場町ばばちようなど

馬場小路・川原かわら小路の南に位置する両側町で、北東から南西に延びる七町ほどの侍町(「盛岡砂子」など)。中央で北西から南東に延びる大清水おおしみず小路が交差する。東は南部で上衆かみしゆう小路・北部で六日むいか町に接し、南西は北上川河岸のすぎ土手、北東は呉服ごふく町に接する。寛永城下図には鷹師町とみえ、両側町の東側に鷹匠が一六軒居住している。同図では呉服町よりの入口一町半ほどは餌指えさし(餌差)町と記され、両側に餌差一一軒がある。なお馬場町の下の橋入口の西角には御鷹部屋と記される犬飼部屋がある。

鷹匠小路
たかじようこうじ

[現在地名]柳川市常盤町ときわまち

脇通わくどい町より南へ延びる通りに沿った組屋敷。小路名称は鷹匠の組屋敷があったことに由来すると考えられ、明和二年(一七六五)以降の状況を示すとみられる上町略御絵図(柳川古文書館収蔵)には当町西側には文殊もんじゆ院のほかに、足軽・扶持人の屋敷が描かれている。寛政三年(一七九一)の町小路絵図には、「高上小路」と記されている。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる町小路等絵図によれば竈数二八。

鷹匠小路
たかしようこうじ

[現在地名]八戸市鷹匠小路

八戸城下の東南端に位置する武家町。東は長横ながよこ町、西は寺横てらよこ町・大工だいく町、南は類家るいけ村、北は六日むいか町に接する。中央を北西から南東の方向へ街路が通り、南端部では西と東への分岐点が各々互い違いになる。文久年間(一八六一―六四)八戸御城下略図に「鷹匠小路 一ツニろう丁ト云」とあり、中下級の諸士名がみえる。藩政初期の頃獄舎があったが、宝永二年(一七〇五)もしくは寛延二年(一七四九)下大工しもだいく町へ移されたという(八戸藩史料)

鷹匠小路
たかじようこうじ

[現在地名]八代市鷹辻たかつじ町・とおり

城の北東隅にあたり、松江まつえ口の北の固めとして配置された。扶持人屋敷を主とする小路で、北・東は外濠に沿い、南はしん町、西はなが丁に接する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報