日本大百科全書(ニッポニカ) 「鶴沢寛治」の意味・わかりやすい解説
鶴沢寛治
つるざわかんじ
義太夫(ぎだゆう)節の三味線。土橋寛治を通称とする初世(生没年未詳)は、1750年(寛延3)から豊竹(とよたけ)座に出座して、島太夫や2世此太夫(このたゆう)を弾いた。4世は鬼寛治といわれるほどの健腕で、1830~1840年代に活躍し、『関取千両幟』(せきとりせんりょうのぼり)で櫓太鼓(やぐらだいこ)の曲弾(きょくび)きを始めたという。晩年は伊勢(いせ)の桑名に住み、その名を全国にとどろかせた。
[倉田喜弘 2018年7月20日]
6世
(1887―1974)初め竹沢団二郎、同団六を経て3世鶴沢寛治郎と改名。櫓下(やぐらした)3世竹本津太夫の最晩年に相三味線となった。1950年(昭和25)から4世津大夫の相三味線となり、1956年に6世寛治を襲名、1962年には重要無形文化財保持者に認定され、生涯にわたって豪快な撥(ばち)さばきをみせた。7世(1928―2018)は6世の子で前名竹沢団六。1997年(平成9)に重要無形文化財保持者に認定され、2001年に7世寛治を襲名した。
[倉田喜弘 2018年9月19日]