日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹本津太夫」の意味・わかりやすい解説
竹本津太夫
たけもとつだゆう
義太夫(ぎだゆう)節の大夫。
[倉田喜弘]
初世
(1792―1855)津の国屋を屋号とする2世竹本綱太夫(つなたゆう)は、その一字を京都の弟子桜川源助に贈り、津太夫と名のらせたが、のち廃業。別に3世竹本梶太夫(かじだゆう)から5世竹本染太夫を経て、1848年(嘉永1)竹本越前大掾(えちぜんのだいじょう)を受領(ずりょう)した津太夫の芸系もある。
[倉田喜弘]
2世
(1839―1912)初世の孫。1864年(元治1)に京都道場(どうじょう)の芝居へ出演したのち、大坂へ下って『日吉丸稚桜』(ひよしまるわかきのさくら)三段目で好評を得る。75年(明治8)以降は文楽(ぶんらく)座へ出て、小音ながら情味のある浄瑠璃(じょうるり)を語り、2世竹本越路太夫(こしじだゆう)(後の竹本摂津大掾(せっつのだいじょう))に次ぐ地位を占めた。通称は法善寺の津太夫。
[倉田喜弘]
3世
(1869―1941)2世の門弟で文太夫(ぶんだゆう)といい、1910年(明治43)、2世津太夫が引退して7世綱太夫襲名と同時に文太夫が3世を名のった。この3世は24年(大正13)から文楽座の櫓下(やぐらした)になり、豪快な語り口は「力の芸術」とたたえられた。
[倉田喜弘]
4世
(1916―87)3世の子。本名村上多津二。父および豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)に師事し、1950年(昭和25)に4世津大夫を襲名。73年重要無形文化財保持者に認定される。
[倉田喜弘]