高野庄(読み)たかののしよう

日本歴史地名大系 「高野庄」の解説

高野庄
たかののしよう

白岩しらいわ川の支流栃津とちづ川・寺田てらだ川の流域に開けた三条家領庄園。三条公忠の日記「後愚昧記」には貞治六年(一三六七)三月二九日条以後消息が散見する。庄域は近世の高野郷だけでなく、その北部地域である市田いちだ(現富山市)辺りまでを含む広大な地域で、室町時代には高野七たかのしち郷とも称され、現在の立山町北部地域および舟橋ふなはし村一帯にあたる。応安五年(一三七二)六月二九日の法印定熙契状(徳富文書)によれば、従来地頭請所だったが、内乱による世情不安を理由にこのとき新代官請契約をしている。従来の地頭請料は三万疋だったが、以後は三分の一を安禅あんぜん(現京都市上京区)方丈文林大姉に永代譲与し、残る三分の二を九―一〇月中に領家に納入すること、またその内には京都蓮華王れんげおう院寺用、同十楽じゆうらく院門跡役が含まれ、その三分の一を沙汰することとなっている。当時の越中国では一石が六二五文に換算されていたので、右の領家職地頭請料三万疋はおよそ四八〇石の京着年貢高に相当する。

「後愚昧記」応安五年一〇月一〇日条には、当庄とともに三条家領であった丹波国多紀たきはた(現兵庫県篠山町)への徴税使入部問題が取上げられ、「今度院御領以下三社領、三代御起請符地等、更不可除之由」とされて、守護使不入についての既得権見直しが検討されている。当庄が三代御起請符地の由緒をもつ庄園であったことが知られる。当庄の成立時期は三条家一族である藤原顕成・隆教が越中国守の地位にあった久安二年(一一四六)から保元二年(一一五七)の間であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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