高良村(読み)こうらむら

日本歴史地名大系 「高良村」の解説

高良村
こうらむら

[現在地名]北野町高良

筑後川中流右岸、同川支流旧陣屋じんや川下流域に位置し、北は今山いまやま村に接する。かつて河北かわきた庄のうちで、高良社が祀られていたが、退転したという(北野林松院文書)。文禄四年(一五九五)一二月一日の小早川秀俊充行知行方目録(問注所文書)では三井郡「高良村」の五八〇石余など一千六〇〇石が問注所統康の領知。本高は七二七石余(元禄国絵図)

高良村
たからむら

[現在地名]那覇市高良たから一―三丁目・高良

宇栄原ういーばる村の西、小禄うるく間切中央から真南に位置し、西に瀬長せなが島を望む台地から低地に形成される。同間切新設以前は豊見城とうみぐすく間切に属し、絵図郷村帳に同間切「たから村」、琉球国高究帳でも同間切に「多加良村」とみえる。高究帳によれば高頭七六石余、うち田四八石余・畠二七石余。「琉球国由来記」の頃から高良村とも表記され、間切集成図では多嘉良たから村と松川まちがー村の集落が一続きに描かれている。「琉球国由来記」に御嶽は見当らない。「高良里主所之殿」「新高良之殿」「宇栄高良之殿」「内間之殿」があり、具志ノロが祭祀を管轄。天保国絵図には豊見城間切への道筋一里塚の印がある。

高良村
こうらむら

[現在地名]不知火町高良

東・北は御領ごりよう村、西は塚原つかはら村、南は西松崎にしまつざき村に接し、村内を北東より南西へ富岡とみおか往還が通じる。村の中央に豊岡とよおか、西に神元かみのもと朝帰あさがえり、南西に東割ひがしわりなどの字地がある(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は松山手永に属した。正保郷帳では田方二四五石九斗余で「日損所」とあり、畠方一四三石八斗余。高良八幡宮は八幡五社といわれ、八幡・春日・住吉・聖母・天満を祀り、「国誌」に「里俗八月十五日ノ祭ヲ宇土三宮社ノサカムカイ祭ト云」とあり、また高良上番所・さがまつ下番所辺りは「例年七月晦日、八月朔日両夜此山上ヨリ、八代海上ノ不知火見物、老若群ヲ為ス、此辺所々ヨリ見レトモ、此地壮観ナリ」という。

高良村
たからむら

[現在地名]東風平高良たから

八重瀬えーじ岳と富盛とうむい村の西に位置する。村名は絵図郷村帳・琉球国高究帳にはみえず、当時は北側にある与那城ゆなぐしく(世名城)村のうちであったと考えられる。「琉球国由来記」には高郎村・高良村と記される。御嶽には世名城ノ嶽(二御前)があり、殿には内原うちばる之殿(現大屋之殿)・川田之殿(現タータ之殿)なか之殿がある。これらは高良ノロが祀っており、同ノロは世名城村の祭祀も行った。向姓義村家家譜によると、尚泰王一二年(一八五九)東風平くちんだ間切は疲弊のため下知役を置くように要望しており、とくに高良・友寄とうむし志多伯したはくの疲弊ははなはだしく、五千坪の真和地畑を開いたとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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