高沢村(読み)こうざわむら

日本歴史地名大系 「高沢村」の解説

高沢村
こうざわむら

[現在地名]桐生市梅田町うめだちよう三丁目

鳴神なるかみ(九七九・七メートル)の東麓、高沢川沿いの谷間に位置し、東は二渡ふたわたり村、南は浅部あさべ村、北は勢多せた座間ざま(現東村)木品きじな市畑いちはた鍛冶谷戸かじかいとなどの集落がある。もと上久方かみひさかた・浅部村と一村であったという。寛文一二年(一六七二)検地帳(安蔵文書)では高一六二石余。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では旗本米津領。近世後期の御改革組合村高帳では旗本曲淵・河野領の二給、家数二三。文化三年(一八〇六)に年賀の贈物として尾州様(尾張藩)へ、高沢海苔五枚を西内紙に包み薄板に挟んで差上げており(「新居甚兵衛日記」新居文書)、高沢川の海苔が名産であった。

高沢村
たかさわむら

[現在地名]安塚町高沢

北流する小黒おぐろ川右岸の緩斜面にあり、高沢、北の石塚いしづか、東の岩戸いわどの集落からなる。北は円平坊えんだらぼう村、南は二本木にほんぎ村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「直嶺分此外三方分高沢村 中」とあり、本納一一石三斗六升一合・縄高三三石四斗六升八合、家五軒・二三人。正保国絵図では高六二石余。天和三年郷帳では高四三石一斗余、うち山高九斗一升五合・漆高一石六斗九升・青苧高一斗三升五合、反別田二町九反余・畑屋敷五反余・山林四町三反余・青苧畑一畝余で漆木一六五本。明和七年(一七七〇)と思われる山里蝋実穂納訳帳(国立史料館蔵)では定式御買上として山蝋実二升七合六勺・里蝋穂三四貫五〇〇匁を吉木よしき(現新井市)の蝋点所に納める。

高沢村
たかさわむら

[現在地名]真室川川の内かわのうち

新町あらまち村の北に位置し、蛇行しながら南流する真室川の北方右岸に中心集落、対岸枝郷明土あくと(安久土)がある。平坦地にあるため山林がなく、柴・薪など他村から伐り取った(新田本村鑑)。元和八年(一六二二)御前帳写では高一五四石余、寛文四年(一六六四)新田高は七石余(新田本村鑑)、文化元年(一八〇四)には高四六九石余、うち田方三八七石余、反別四二町四反余、うち田方二九町四反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数二七・人数一六二。

高沢村
たかさわむら

[現在地名]野津原町高原たかはら 高沢

よろいヶ岳(八五九・三メートル)北西麓の七瀬ななせ川の水源近く、小原おわら村の南に位置する。大野郡に所属。江戸時代を通じて岡藩領で、正保郷帳に村名がみえ田高八四石余・畑高四五石余、藤北ふじきた郷に属し、柴山有と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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