高坂郷(読み)たかさかごう

日本歴史地名大系 「高坂郷」の解説

高坂郷
たかさかごう

現東松山市高坂を遺称地として一帯に比定される。当地を名字とする武士に高坂氏がいた。元弘元年(一三三一)赤坂あかさか(現大阪府千早赤阪村)攻めでは高坂出羽権守信重が活躍している(「太平記」、「光明寺残篇」光明寺蔵など)。信重は建武二年(一三三五)には相模箱根はこね竹之下たけのした(現静岡県小山町)の合戦で河越氏とともに新田義貞に属して足利直義と戦っている(「太平記」など)。また伊豆守護に任じられた高坂氏重は笙や和歌に通じて風雅の人として知られた(「鳳笙師伝相承」など)。応安元年(一三六八)の平一揆の乱では高坂氏が河越氏とともに一揆勢の中心をなしている(「鎌倉大日記」生田繁氏蔵など)

康暦元年(一三七九)閏四月二八日の上杉朝房書状(鹿王院文書、以下断りのない限り同文書)に「むさしの国たかさかの郷」とみえ、朝房は鹿王ろくおう(現京都市右京区)に当郷を寄進したことを「定香庵」に伝えている。

高坂郷
たかさかごう

和名抄」高山寺本・東急本ともに「高坂」と記し、訓を欠く。「土佐幽考」は「在土佐郷之西中世分東西二村、西謂小高坂、東謂大高坂、今城府也、慶長七年 一豊君移浦戸城於此地河中山、寛永年中 忠義君又改高知山」とし、「日本地理志料」は「亘高知・小高坂・江ノ口・潮江・万万・久万(秦)泉寺ノ諸邑、為其郷域」とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報