高坂村(読み)たかさかむら

日本歴史地名大系 「高坂村」の解説

高坂村
たかさかむら

[現在地名]鶴岡市高坂

民田みんで村の西にある。金峯きんぽう山の北東麓、鶴ヶ岡城下から登拝道表口の青竜寺村に至る道筋にあたる。小丘・台地ありで起伏に富み、庄内平野が展望できる。西方に枝郷新山にいやま村があり、出羽郡司橘朝臣時村の発見と伝えるたちばなの湯(現新山温泉)がある。天正一四年(一五八六)五月二日の武藤義興充行状(旧山形県史所収文書)に「高坂」とみえる。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高六七〇石余。ほかに同年の庄内寺社領目録によれば金峯領六石余がある。寛永元年庄内高辻帳では高七五九石余。正保郷帳では田六二〇石余・畑一三三石余、社領六石余、はえ山・新田がある。

高坂村
たかさかむら

[現在地名]東松山市高坂

本宿もとじゆく村の東、岩殿いわどの丘陵東端の高坂台地上にある。北東の都幾とき川低地や南の越辺おつぺ川低地と当地を結ぶ道には坂が多い。中世高坂郷の遺称地。古くは本宿村と一村であったが、承応年間(一六五二―五五)同村を分村したという(風土記稿)日光脇往還が通り、宿駅が置かれた。天正二〇年(一五九二)一月、加々爪甚十郎(政尚)は徳川氏より「高坂之郷」二千石など合せて三千石を与えられ、寛永二年(一六二五)七月には高坂村一千五〇石など合せて四千五〇〇石が甚十郎の子民部少輔(忠澄)に宛行われている(記録御用所本古文書)

高坂村
こうさかむら

[現在地名]牟礼村大字高坂

現牟礼町の南西部。東は袖野山そでのやま村、東南は地蔵久保新田じぞうくぼしんでん、南は西条にしじよう(現長野市)、西は霊仙寺りようせんじ山麓の原野、北は野村上村に接する。西は霊仙寺山の山麓、南は三登みと山山塊の山麓が斜面をつくり、高原性の平地が北東に向かって展開している。西側の山麓沿いに坂中さかなか道が南下し、坂中峠を越えて善光寺ぜんこうじに通じ、北の野村上村境に沿って、飯縄いいづな山麓を経て戸隠とがくしに通ずる戸隠道が東西に通じ、坂中道との交差点に高坂、また坂中峠の坂本に坂口新田さかぐちしんでんの集落がある。

高坂村
たかさかむら

[現在地名]根上町高坂町

根上村の北に位置。中世には郡家ぐんけ(板津庄)に含まれた。永仁四年(一二九六)一一月二日の願西譲状(大徳寺文書、以下同文書は省略)に「くんけのみなミのしやうたかさかのかうのうち、又なりミやうくぬきまちのやしきの事」とあり、勧修かじゆう(現京都市山科区)郡家庄の一角を占める南庄高坂郷内の又成名櫟町屋敷が願西から息女藤原氏女に相伝されている。

高坂村
たかさかむら

[現在地名]いわき市内郷高坂町うちごうたかさかまち

夏井なつい川支流のしん川北岸にあり、東対岸は御厩みまや村、南対岸はつづら村、北は御台境みだいさかい村。暦応三年(一三四〇)七月日の岩崎隆連女子弟熊訴状(岡本元朝家蔵文書)によれば、「岩崎郡内金谷・津々良・秋山・後田・高坂・輪蔵以上六ケ村間事」は、岩崎新左衛門尉隆連から娘弟熊に譲られていたが、隆連の孫の若熊丸が押領していた。同年八月二日の室町幕府召文奉書(同文書)では、前記の「金谷以下六ケ村事」につき、岩崎若熊に鎌倉へ出頭するよう命じられている。六ヵ村のうち「後田」は村内の字御殿ごてんに比定される。近世は磐城平藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に北郷きたごうとみえ、高七三〇石余。

高坂村
たかさかむら

[現在地名]金沢市高坂町

宮野みやの村の東、森下もりもと川右岸に位置。享禄錯乱に敗れて能登越中に逃れた「老者方」に「上坂」がおり、享禄五年(一五三二)三月下旬「上坂与三兵衛」らは越前朝倉教景を頼っている(朝倉始末記)。天文二四年(一五五五)七月江沼えぬま郡に侵攻した朝倉教景勢に対する八月一三日の加州四郡一揆勢の総反撃で、菅生すごう (現加賀市)に向かった「賀北郡」一揆の大将に「上坂」の名がみえる(同書)。当地には上坂与三兵衛の館跡があったという(加賀志徴)。正保郷帳によれば高九五石余、田方三町八反余・畑方二町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一〇一石、免四ツ四歩、小物成は山役一一二匁・蝋役一匁・草野役三匁・綿役一匁・鳥役二匁(三箇国高物成帳)

高坂村
たかさかむら

[現在地名]村岡町高坂

いけなる村の南西にあり、集落は瀞川とろかわ山東方山腹の高原状の地に形成される。「七味叢誌」によれば享禄年中(一五二八―三二)池ヶ平村は当村の支村であったという。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では「池平高坂村」とあり、池ヶ平村と合せて高二四石余。なお寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図ではともに池ヶ平村高二四石余の記載はあるが、当村の名はみえない。

高坂村
たかさかむら

[現在地名]篠山市高坂

垣屋かきや村の北に位置し、宮田みやだ川に高坂川が注ぐ。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「高坂村」とみえ、高七九石余。正保郷帳では田高七四石・畠高二石余。元禄郷帳でも高七七石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では板井組のうちで、高九七石余、家数二七・人数一一四。

高坂村
たかさかむら

[現在地名]小矢部市高坂

別所べつしよ村の北、下屋敷しもやしき村の南西、子撫こなで川左岸丘陵に立地。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数五、峠組に属する。正保郷帳では高六五石余、田方七反・畑方三町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五七石・免五ツ、小物成は山役五五匁・蝋役三匁・漆役一〇匁(三箇国高物成帳)

高坂村
こうざかむら

[現在地名]市原市高坂・光風台こうふうだい

安須あず村の南西、養老ようろう川左岸にある。当地の要害ようがい山などの一帯は中世に築かれた高坂砦跡とされる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一六七石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報