高井村(読み)たかいむら

日本歴史地名大系 「高井村」の解説

高井村
たかいむら

(久米郡)

[現在地名]松山市高井町たかいまち

松山平野の南平坦部を占める農村。村の南部を東西に流れるうち川によって、浮穴うけな郡高井村と境を接する。近世村落の成立の時から浮穴郡に属していたことは、慶安元年伊予国知行高郷村数帳・領分附伊予国村浦記・天保郷帳などの浮穴郡の項に村名があり、久米郡の項に記載されていないことで明らかである。ところが明治初年の「伊予国久米郡地誌」には、天保一〇年(一八三九)に浮穴郡から久米郡に編入されたと述べ、「井手筋定書之事」によると、嘉永六年(一八五三)の時点で浮穴郡高井村南分と久米郡高井村北分とに分れていたことを示している。これらの史料によって、高井村が分村した結果、南分と北分とになったことがわかる。明治五年(一八七二)の「松山領里正鑑」は、浮穴郡と久米郡の項に各高井村の名を掲げ、後者の村高を七七三石余としていて、分村前の村高は両村成立後の合計に一致する。

高井村
たかいむら

[現在地名]館山市高井

上野原うえのはら村の北、みなと村の南東に位置し、平久里へぐり川とその支流たき川の合流点南側に展開する。集落は館山平野の第四砂丘列・第五砂丘列上に形成されている。江戸から館山までの主要往還滝田たきだ道が縦断する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では四九一石余(うち田二九五石余)、同一五年の里見家分限帳では使番十人衆岡本馬之助・百人衆の頭安西中務・奏者梅田与九郎の三氏の給知。正保郷帳では高三八七石余(うち田二五七石余)で北条藩領。元文村高帳でも同藩領で、天保村高帳では鶴牧藩領。天保一四年(一八四三)の忍藩領郷村高帳に村名がみえ、武蔵忍藩領。

高井村
たかいむら

(浮穴郡)

[現在地名]松山市南高井町みなみたかいまち

松山平野の南平坦部に位置する農村。東は野田のだ(現温泉郡重信町)、西は森松もりまつ村、南は重信しげのぶ川を隔てて村・中野なかの村、北は高井村(久米郡)に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「高井村河原分共 日損所、小川有」とある。河原分は重信川の南岸にあり、幕末―明治初年の間に河原かわら村として独立した(→河原村

古代には浮穴郡井門いど郷の北部を占めたと考えられる。中世には河野氏の支配下にあったが、南北朝時代の初め宮方の土居氏の勢力の強かった時はその統治を受けた。近世に入り、加藤嘉明蒲生忠知の治世を経て、松平氏による松山藩領となった。明治初年の「伊予国久米郡地誌」には、高井村について「元浮穴郡に属せし処、天保十己亥年十二月久米郡に属す」と述べられている。

高井村
たかいむら

[現在地名]前橋市高井町・総社町高井そうじやまちたかい

東は植野うえの村、南東は総社町、南西は北原きたはら(現群馬郡群馬町)、西は青梨子あおなし村。赤木文庫本「神道集」の「上野国那波八郎大明神事」によれば、群馬郡の地頭群馬大夫満行の八男満胤は才智を兄たちにねたまれて殺され、死体は石の唐櫃に入れられ、高井郷鳥喰とりばみ池の南東方にある蛇喰へびはみ池の中島にある蛇塚へびづかの岩屋という岩の中深く投込まれた。この高井郷を当地にあてる説もある。「上野国神名帳」の群馬郡に高井明神があるが、不詳。現在長野県南佐久みなみさく臼田うすだ田口の神宮たぐちのじんぐう寺にある梵鐘には「上野国群馬郡高井郷東覚寺推鐘」とあり、暦応元年(一三三八)一二月二一日の紀年銘があり、その後天文一二年(一五四三)神宮寺の前身である新海大明神に奉納されたものである。明応五年(一四九六)三月晦日の印良坊快助旦那売券(熊野那智大社文書)によれば、玉井が知行していた「上野国高井極楽坊門弟引旦那」などを合計一八貫二〇〇文で等覚房に売渡している。

高井村
たかいむら

[現在地名]五日市町高井・美鈴が丘東みすずがおかひがし一―五丁目・美鈴が丘西みすずがおかにし一―五丁目・美鈴が丘南みすずがおかみなみ一―四丁目

おにじよう山の西麓に位置し、利松としまつ村の南東にあたる。東南部は山地で、西北へ向けて開けた平地に集落が展開する。「芸藩通志」所載絵図では、村内に上河内かみごうち村・口和田くちわだ村の飛地がある。元弘三年(一三三三)五月二七日付の沙弥道秀譲状(厳島野坂文書)に、一身田御厨ならびに厳島社領として「高井北方之内 藤国三名」とみえる「高井」が当地のことか。

高井村
たかいむら

[現在地名]防府市大字高井

西目にしめ山の東南麓、佐波さば川右岸の地で、対岸は西佐波令にしさばりよう、西南は大崎おおさき、北東は下右田しもみぎたの各村に接する。萩藩領で三田尻宰判に属する。

西目山東南麓の高台に大日だいにち古墳があり、大内氏の祖琳聖太子の墳と伝える。また式内社のつるぎ神社も祀られ、早くから開けた地であったらしい。

村名は永禄(一五五八―七〇)頃と思われる国分寺領・同末寺近年不知行目録(「寺社証文」所収周防国分寺文書)に「同料(本堂修造料)田高井村五反但御検地以来田数増云々近年児玉惣右衛門尉殿進止之事」、文禄四年二月二八日の年号のある剣神社棟札に「佐波郡高井村剣宮御宝殿」とみえる。

慶長一五年(一六一〇)検地帳は高井村として総石高四二五石余、うち田方が五三町余で三九四石余、畠方が三町余で一一石余、百姓屋敷五〇を記す。

高井村
たかいむら

[現在地名]榛原町大字高井

内牧うちまき川流域、自明じみよう村東南の渓谷村。近世初期には檜牧ひのまき村に属し、のち檜牧上ひのまきかみ(村高五九五・五石)と檜牧下村(下檜牧村)に分れ、檜牧上村はさらに村高を二分してそれぞれ二九七・七五石の高井村・自明村が成立。初め松山藩(福島高晴)領、元禄八年(一六九五)幕府領元禄検地により村高三四三・四一四石。元禄郷帳に「古ハ上檜牧村と申し候」とみえる。

文政八年(一八二五)に吉野郡竜門りゆうもん郷九ヵ村(現吉野町)は炭焼冥加銀を納めていることを根拠に、高井村をはじめ上赤埴かみあかばね村・下赤埴村・八滝やたき村・内牧うちのまき村・諸木野もろきの村、現菟田野うたの町の上平井かみひらい村の七ヵ村を相手取り炭焼を差止めるよう願出たのに対し、七ヵ村は現室生村の田口たぐち村など九ヵ村を誘い同心して対抗しているが、結末は不明。

高井村
たかいむら

[現在地名]国府町高岡たかおか

麻生あそう村の東に位置する。拝領高は一三七石余、本免は七ツ。織田氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数一四。天保一五年(一八四四)の竈数は一九、作人二二・出奉公人七・抱奉公人四・御小人二(「作人帳」井上家文書など)。弘化四年(一八四七)の上構下札略写(県立図書館蔵)では朱高一五〇石余(うち畑高一二石余)で、年々開一〇石余を加えた都合高は一六三石余。物成高は一一三石余(ただし加損米一二石余)

高井村
たかいむら

[現在地名]白浜町さかえ

北はたいら村、南は吉田よしだ村、東は溝端みぞばた村、西は才野さいの村。富田とんだ川右岸に沖積した微高地に開かれた村。「続風土記」に「土地少し高し、村中に富田川の堰あり、高井の名是より起る」と記され、戦国時代は富田川の西北の地を支配した吉田氏の勢力が及んだと伝える。慶長検地高目録によると村高一九五石余。元和五年(一六一九)以降和歌山藩田辺領。

高井村
たかいむら

[現在地名]村岡町高井

寺河内てらがわうち村の南西にあり、集落は湯舟ゆぶね川の両岸に形成される。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「たかいの村」とみえ、当地には「たかい菅殿」「いはら志やうけん殿」などが住んでいた。また同日記にみえる「ふんとう村」は地内の文堂ぶんどうにあたると思われる。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では高一一一石余、寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも高は同じ。

高井村
たかいむら

[現在地名]豊橋市石巻本いしまきほん

かみ村の西北にあたり、東海道より分岐する別所べつしよ街道が吉田より本村を経て北進する。石巻宮織女帳(大木信雄氏蔵)文明二年(一四七〇)の項に「小おりめ 高井 祝左近大夫」とあり、石巻神社祭礼に勤めた集落としてみえる。

近世を通じて吉田藩領。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地高は三〇二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報