駿府城跡(読み)すんぷじようあと

日本歴史地名大系 「駿府城跡」の解説

駿府城跡
すんぷじようあと

[現在地名]静岡市駿府公園・追手町・城内町・駿府町

江戸時代初期に大御所と称された徳川家康が拠った城。同時期および明治維新期には駿府藩(府中藩)の藩庁であった。静岡平野の北、賤機しずはた山の南、安倍あべ川左岸の標高二〇―二五メートルの微高地に位置する。天正一〇年(一五八二)武田氏が滅び、徳川家康駿河遠江三河・甲斐・信濃の五ヵ国を領有すると、松平家忠に駿府城の築城を命じた。築城開始は同一三年のこととされ、「家忠日記」同年八月一四日条には「駿河府中普請」、同年閏八月二三日条には「御屋敷普請出来候」とあるのは、築城の下準備であろうか。そして同一五年の二月五日に「御かまへ二のくるわ堀普請」、一一月三日には「御城(材)木とゝけ候、こまのたん(護摩壇)の石かけ(垣カ)」が完成、同一六年五月一二日から一四日に「てんしゆのてつたい才木普請」が終わり、同一七年四月一〇日に一応の完成をみた(以上、同書)。しかし家康は翌一八年八月豊臣秀吉によって関東へ移封され、駿河国へは秀吉の臣中村一氏が一四万五千石を領して入封、駿府城主となった(「徳川加除封録」など)。一氏は慶長五年(一六〇〇)死去、その子忠一が領地を襲封して城主となっていたが、関ヶ原の合戦後に伯耆米子よなご(現鳥取県米子市)へ移され、駿府城へは家康の臣内藤信成が伊豆韮山にらやま(現韮山町)から四万石で入った(同書)。これを駿府藩(府中藩)の成立とする。

慶長八年将軍となった家康は、同一〇年将軍職を徳川秀忠に譲り、自らは大御所となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報