駿信往還(読み)すんしんおうかん

日本歴史地名大系 「駿信往還」の解説

駿信往還
すんしんおうかん

西郡路とも信州路ともいう。駿州往還(河内路)鰍沢かじかざわ宿(現鰍沢町)甲州道中韮崎宿を結ぶ街道で、ばらざわ(現甲西町)が中継の宿場であった。現在の国道五二号にほぼ沿っている。慶長年間(一五九六―一六一五)に富士川舟運が始まると韮崎へ搬出された武川むかわ筋や逸見へみ筋の年貢米、信州松本領・諏訪領の廻米などを鰍沢河岸に運ぶ輸送路として、また信州の中馬が鰍沢河岸に往復する道として活況を呈した。海産物とくに塩を信州に運んだ塩の道でもある。道中の沢・古市場ふるいちば(現甲西町)には戦国期から市が立っており、「甲陽軍鑑」には天正元年(一五七三)武田信玄が帰洛する二人の僧を沢まで見送った記事がある。河内かわうち路に継続する要路であったとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の駿信往還の言及

【甲斐国】より

…甲州街道と東海道との脇往還として駿(静岡県)豆(静岡県)相(神奈川県)3州と結ばれる鎌倉往還は御坂(みさか)峠から富士北麓を籠坂峠越えで東海道沼津宿に通ずるが,郡内領と密接なつながりをもち,次に駿河と結ぶ中道(なかみち)往還は右左口(うばぐち)峠を越え精進(しようじ),本栖(もとす)の湖畔を経て富士西麓から東海道吉原宿に達した。また富士川舟運に並行して,甲州街道韮崎宿へ結ばれる駿信往還その他があった。 初期以来しばしば農民一揆が引き起こされているが,著名なものに1673年(延宝1)甲府家の検地による収奪強化を原因とし藩の内訌にもかかわった強訴があり,81年(天和1)郡内藩における19ヵ村代表の越訴も過酷な搾取に対する反対闘争であった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」