馬場城跡(読み)ばばじようあと

日本歴史地名大系 「馬場城跡」の解説

馬場城跡
ばばじようあと

[現在地名]村大字馬場

山田氏が本拠岩掛いわかけ(現天理市)の東に構築した城跡。「北吉品記」(「山辺郡誌」所収)に「馬場村ニ山田殿城趾ト云山城ノ跡有」と記す。馬場集落の東約一キロ、北に布目ぬのめ川、東にはり川に挟まれた標高五三四・三メートルの山頂にある。本丸を中心に、六つの方向に延びる短い尾根上にそれぞれ郭があり、急斜面落差の大きい尾根の最先端には堀がなく、緩やかな尾根上の郭には先端部前方に一つないし二つの堀がある。

馬場城跡
ばばじようあと

[現在地名]豊前市中村

通称しろ(約一〇〇メートル)の山頂に築かれた築城ついき郡の国人仲八屋氏の居城。延徳四年(一四九二)三月日の「大内氏掟書」豊前国中悪銭事(法三)に、大内氏の上毛郡段銭奉行として「仲八屋藤左衛門尉」の代官がみえる。明応六年(一四九七)六月二一日の大内義興感状(角田則行文書/豊前市史 文書資料)によれば、仲八屋藤左衛門尉の子息である弥三郎興信が大内方として博多在陣中に病死している。国見くにみ山から東に延びた舌状台地の先端を堀切で断ち切って築かれた山城の山頂は四区画からなり、西端の曲輪は二条の堀切で尾根を断切り、三二×一九メートルの大土塁がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報