四ッ谷村(読み)よつやむら

日本歴史地名大系 「四ッ谷村」の解説

四ッ谷村
よつやむら

[現在地名]大曲市四ッ屋よつや

南は高関上郷たかぜきかみごう村、東は堀見内ほりみない村(現仙北せんぼく郡仙北町)、西北は新谷地にいやじ村、北は長戸呂ながとろ村(現仙北郡中仙なかせん町)に接する。

「月の出羽路」に「此邑古来むかし百瀬てふところ いといとふりにし処から、今は荒屋敷と云に戸数やど繁栄さかえ、また里正むらぎみも此あらやしきに在り」とあるが、中世から近世初期の状況は明らかではない。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には四ッ谷村六九二石とある。延宝八年(一六八〇)「四ツ屋・新谷地・高関・花立・大曲五ケ村絵図」が作成されているが、一帯で大規模な開発が進行し、用水路が複雑に交錯してきたためとみられる。

四ッ谷村
よつやむら

[現在地名]府中市四谷よつや一―六丁目・日新町につしんちよう一丁目・同五丁目・住吉町すみよしちよう三―五丁目・西府町にしふちよう一―二丁目・同五丁目・北山町きたやまちよう一―二丁目・西原町にしはらちよう三―四丁目

本宿ほんしゆく村の西、多摩川北岸の沖積地にある。古くは四屋ないしは四ッ屋と書いた。元亀四年(一五七三)三月六日、駿河国駿東すんとう八幡やはた(現静岡県清水町)から「四屋」に駆落ちをしたとね・甚房の二人の人返しが北条氏によって命じられている(「北条家朱印状」八幡神社文書)。寛永(一六二四―四四)の初め洪水で地所流失、村は退転したが、寛永四年三月、甲州八代やつしろ市川上の宮いちかわかみのみや(現山梨県市川大門町)から当地に移住・土着した上之宮内匠(市川氏)が、代官守屋左太夫の許可を得て公募の人足を使って再び開墾し村を復興したと伝える(風土記稿)

四ッ谷村
よつやむら

[現在地名]長岡市四ッ屋よつや

西は鹿熊かくま新田村(現見附市)百束ひやくそく村、東は鳥屋脇とやわき(現見附市)。村内を見附往来が通り、これを北上すれば漆山うるしやま(現見附市)に至り、刈谷田かりやだ川に出る。正保国絵図に「四ツ屋村」とあり、高一一二石余、長岡藩領。元禄郷帳では高二七二石二斗余。宝暦一四年(一七六四)の長岡藩領北組四ツ屋村連判一札(清水義一郎氏蔵)によると、当村への掛持百姓福井ふくい新田・百束村・漆山村と当村百姓は、元禄検地の際に高二七二石二斗余のうち四七石三斗余を一二割とし、諸物入の際には各村惣高割によって納めるなどの取決めを行っており、村内の一部耕地に四ヵ村による割地の慣行が行われていたことが知られる。

四ッ谷村
よつやむら

[現在地名]館林市四ッ谷

東から南にかけ羽附はねつく村、北は田谷たや村、西は当郷とうごう村。もと民家が四軒あったので四ッ家よつやとよばれ、寛文二年(一六六二)羽附村から分村のさい四ッ谷村としたという。しかし寛文郷帳には村名はみえず、元禄郷帳に羽付村枝郷として四ッ谷村とみえ、旗本新見・鵜殿領の二給。のち館林藩領となる。寛政一二年(一八〇〇)筆写の定式組合村々高帳(筑比地文書)では九二三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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